- 1 はじめに
- 2 1.最大の結論――島の輪郭よりも、「海と陸の境界の読み方」が変わる
- 3 2.現在の対馬の地形――最初に「正しい島」を置く
- 4 3.7,300年前の海岸線――「海面を2m下げる」だけでは復元にならない
- 5 4.対馬暖流と季節風――流れの存在と、舟の進路を分ける
- 6 5.越高遺跡――海を越えたのは物だけだったのか
- 7 6.浅茅湾・三根湾――「穏やかな湾」だけでは説明できない
- 8 7.鬼界アカホヤ噴火――同じ時代に近いことと、被災の証明は違う
- 9 8.朝鮮半島・九州との海上交通――交流の証拠は強いが、航路は未確定
- 10 9.縄文人が見た対馬――生活の場所を決めるのは、湾・水・地面の組合せ
- 11 10.結論と今後の研究課題――復元図を完成させるために何が必要か
- 12 11.参考文献・資料
はじめに
太古の日本海を、人々を隔てる壁ではなく、交流を支える海の道として捉え直したい。そんな思いから、これまで「日本海環状交流圏の形成史」を考え、さらに日本海の南部に焦点を絞って、九州と朝鮮半島が対馬を介してどのようにつながっていたのかを調べて「対馬は7,000年前から海上交流の拠点だったのか」をまとめた。その過程で、一つの疑問が浮かんだ。対馬の越高遺跡で人々が活動した時期と、約7,300年前の鬼界アカホヤ噴火の年代が近い。この二つの出来事には、何らかの関係があるのだろうか。
巨大噴火による環境の変化が、人々の移動や海上交流に影響した可能性は考えられる。しかし、年代が近いというだけで因果関係を結びつけることはできない。そもそも、噴火の頃の対馬は、どのような姿をしていたのか。現在の入り江は当時も海だったのか。舟を寄せられる浜や生活用水はどこにあり、海流と季節風は往復の航海にどう作用したのか。人々の動きを考えるには、まず、その舞台となった島と海を確かめる必要がある。
本稿では、現在の実測地形を出発点として、海面変動、地盤の変動、堆積と侵食を検討し、対馬暖流や季節風の研究を考古資料と照合する。その内容を、現在の地形、古海岸線の試算、海流と風、遺跡と候補航路という四枚の地図に整理した。ただし、得られた資料だけでは、7,300年前の海岸線や集落の位置を精密に確定することはできない。
目指すのは、想像を膨らませながらも、その根拠を一つずつ確かめられる古地図である。確認できた事実、資料から推定できること、まだ分からないことを分けながら、縄文人が向き合った対馬の海と、そこを渡る営みの可能性を探っていきたい。
1.最大の結論――島の輪郭よりも、「海と陸の境界の読み方」が変わる
7,300年前の対馬を考える際、現在より大きく変形した架空の島を描く必要はない。一方、現在の海岸線をそのまま古代へ移すこともできない。特に重要なのは、西岸の水没遺跡、湾奥の堆積、そして遺跡の年代差である。
今回確認した研究は、対馬西岸の縄文遺跡が、現在の潮位に対して低い位置にあることを説明しようとしている。そこには海水量の変化だけでなく、海水の重みに対する地球の変形、地盤の相対的な変動が関係する[1–3]。「縄文海進だから全国どこでも現在より数メートル高い海面だった」と考えると、対馬の復元を誤る可能性がある。もう一つの重要な点は時間である。越高遺跡は朝鮮半島南部と九州との交流を示すが、文化庁の現在の解説は主要な年代を約7,100~6,400年前とする[4] 。噴火を約7,300年前とすると、中心となる活動はその後に位置する。発掘報告には、これより古い側へ延びる個別試料の暦年較正値もある。しかし、その一点だけで、噴火当日に同じ集落が存在したと確定することはできない[5,6]。
そこで本稿の4枚は、①現在の基準となる地形、②海岸線を検討するための試算、③海流・季節風の広域的理解、④年代差を残した考古学的な航海仮説、という役割を持たせた。地図②の茶色い線は、7,300年前の確定海岸線ではない。地図④の破線も、発見された航跡ではない。 この区別が、地図を研究の道具にするための出発点である。
2.現在の対馬の地形――最初に「正しい島」を置く
地図① 国土地理院の淡色地図と標高タイルを加工。海岸線・等高線・現河川を基礎とした。遺跡記号は地名の代表位置であり、発掘区の境界ではない。
対馬は、朝鮮半島南部と九州北部の間に位置する。山地が海岸近くまで迫り、湾や谷口の小さな平地が、人の活動を考える上で重要になる。浅茅湾のような複雑な溺れ谷は、外洋に面した岬と、奥まった入り江とで、利用条件が大きく違う[5,7] 。今回は島の形を手描きせず、国土地理院の配信タイルを緯度経度に対応させて配置した。地図上の座標表示は世界測地系の経緯度、表示投影はWeb Mercatorである。配信タイルは縮尺に応じて一般化されているため、沿岸の小礁や50mほど離れた発掘地点まで精密に読み取れる図ではない。[8]彩色標高はDEM10B由来の標高タイルから作成した。元資料が10mメッシュに由来しても、今回取得したズーム11の配信画素は、この緯度では地上約63mに相当する。ブログ用画像の画素数を増やしても、元の測量精度や位置精度が向上するわけではない。越高のA地点とB地点は、全島図では一つの代表点にまとめた。文化庁は両者の隔たりを約50m、2019年の発掘報告はB地点をA地点の北東約60mと記す。[4,5] これらは近接した地点の概略説明であり、個別の世界測地系座標を意味しない。同報告の基準点一覧は局地座標である。今回はそれを根拠なく緯度経度へ変換しなかった。
補助図 熊本大学文学部考古学研究室(2019)『越高遺跡A地点』p.9、図9の図部分を抜粋。原図の方位・縮尺による配置の確認用。全島図の代表点からA・Bそれぞれの正確な座標を逆算することはできない。
現在の対馬を古代へ移すときには、人工水路にも注意が必要である。大船越と万関の水路には近世・近代の開削が関わる。万関瀬戸は1900年に開削された[9] 。現在の水路を、そのまま縄文人が通航できた海峡として描くことはできない。なお、開削以前に古い低地や狭窄部がどの高度だったかは別問題であり、古地形調査による検証が必要である。
3.7,300年前の海岸線――「海面を2m下げる」だけでは復元にならない
地図② 青線は地理院地図の海域色から抽出した現在の海陸境界、茶破線はGMRTの現在地形に対する−2m等高線。古代の地形補正を施した復元線ではない。拡大部の0m・−5mは比較のための任意の条件であり、推定値の信頼区間ではない。
3.1 海面は場所によって違って見える
海水量が増えれば海面は上がる。しかし、海水が増えた場所では荷重も増え、地球内部の粘性的な応答を通じて地表の高さが変わる。この作用をハイドロアイソスタシーという。西九州の水中遺跡を扱った中田ほかの研究は、こうした広域的な地球の応答によって、島側と九州本土側に異なる相対海面の履歴が生じることを論じている[2]。これは、個別の地震や断層運動がどこでも不要になるという意味ではない。古海岸線に必要なのは、その地点の地盤に対して海面がどう動いたかという「相対海面」の履歴である。九州の別地域の海面曲線を、対馬全島へ一律に移植してはいけない。
3.2 文献の「−2m」は有用だが、使い方に条件がある
越高の地形・地質を検討した西山の報告は、約7,000年前の対馬西岸の海水準を現在より約2m低いとする先行研究の推定を参照している[3,6]。 今回はこれを、地図②の試算条件を選ぶ根拠にした。ただし、以下の条件が残る。
- 約7,000年前と約7,300 cal BPは同じ時点ではない。
- 引用元と引用先で年代軸が統一されているか、原図・測定値まで確認する必要がある。
- −2mという値に、対馬全島共通の統計的な誤差幅は与えられていない。
- 地形データの水深・標高の基準面も、資料間で照合する必要がある。
したがって、本稿では「7,300年前の海面は−2.0±何m」といった数値を作らない。使える参照値があることと、特定年の海岸線が確定していることは別である。
3.3 現代の等深線を古海岸線とするために足りないもの
現在の地形を固定して水面だけを変える計算は、海面条件に対して地図がどう変わるかを見る感度計算としては有用である。しかし、湾奥ではその後の堆積によって海底が高くなり、海食崖では侵食によって陸が失われる。埋立て、浚渫、水路の開削もある。必要な関係を概念的に書けば、古い地形=現在の地形−後世の堆積・盛土+後世に失われた地形+地盤変位の補正となる。さらに、その古い地形と当時の相対海面が交わる位置を求める必要がある。相対海面曲線に既に地盤応答が含まれている場合、地盤沈降量を別に再加算すると二重計上になる点にも注意したい。
今回取得したGMRTは、海底・陸上の広域地形を一つの格子として扱えるデータである[10,11]。 しかし配信格子の細かさは、沿岸浅海域の真の測深精度ではない。高解像度測深がない領域には広域グリッドが使われる仕様があり、海岸直近の数m差を確定する用途には不足する。地図②で青と茶が大きく離れる場所があっても、それを全部「縄文時代に増えた陸地」と読んではならない。
今回のデータの整合性を、境界線の頂点どうしの一方向最近傍距離で点検した。地理院由来の海岸境界からGMRTの0m線への距離の中央値は約449m、90パーセンタイルは約1,979mだった。一方、GMRT内で0m線から−2m線へ測った同種の距離は、中央値約24mだった。これは点の配置や湾の表現にも左右される診断値であり、測量誤差の推定や実際の海岸移動量ではない。それでも、海面を2m変えた影響を議論する前に、基準となる海陸境界の不一致を解決しなければならないことが分かる。計算条件は別添の研究資料と再現用スクリプトに示した。
地図②が示すのは、復元の見通しと限界である。海面を下げたときの変化と、地理データ間の不一致を切り分ける追加調査が必要であり、現段階では古い陸地面積も算出しない。
4.対馬暖流と季節風――流れの存在と、舟の進路を分ける
地図③ 左右は同じ現在地形の基図。実線は現代の代表方向、破線は古代への広域的な推定・類推。矢印の幅・長さは流速、流量、風速を表さない。
完新世の対馬暖流の変動は、日本海の海底堆積物に含まれる珪藻や、温暖な海にすむ貝類の分布などから研究されてきた[12,13]。 これらは、対象時代に暖流が海域の環境を形づくっていたことを考える根拠になる。一方、微化石から得られる暖水の影響や流入の変化を、そのまま特定の岬沖の毎秒何mという表層流速へ変換することはできない。地図③の古代側は、暖流が南から日本海へ入る広域的な関係を示し、島の東西でどの流軸がどれだけ強かったかは確定していない。現代の対馬暖流は、気象庁の説明では冬・春に比べ夏・秋に強い傾向を持つ[14] 。この季節性は航海仮説を考える手掛かりにはなるが、7,300年前の季節別流速を再現した値ではない。
季節風も同様である。現代の日本付近では、冬は北西、夏は南東または南西など、南寄りの風が季節風の代表となる[15] 。古代の図にはこの一般像を類推として置いた。ただし、対馬の海峡で何日連続して吹いたか、どの湾が風下になったかを示す実測資料ではない。東シナ海の塩分・有孔虫から夏季の淡水流入とモンスーン降水を検討したKubotaほかの研究も、広域の気候変動を考える資料になる[16] 。しかし、その対象は降水や河川流出を介した海洋環境であって、対馬の局地風向の直接復元ではない。「完新世中期のモンスーンは強かったから、毎年同じ季節に安全に渡れた」とは結論できない。
5.越高遺跡――海を越えたのは物だけだったのか
越高遺跡の価値は、半島系の遺物が一つ見つかったというだけではない。A地点の板石を組んだ方形炉、朝鮮半島南部と関連する土器、九州に産地を持つ石材など、異なる種類の証拠が重なる点にある[4,17]。文化庁の解説は、半島系の隆起文土器に対馬産の胎土を含むこと、九州産の黒曜石・サヌカイトの石器があることを挙げる[4]。 この組合せは、半島の生活文化と九州の物資の流れが接する場を考えさせる。ただし、住民の出自や言語、民族集団を、土器の形だけで特定することはできない。考古学的な推論は段階を踏む必要がある。
| 証拠 | 支持する解釈 | それだけでは決まらないこと |
|---|---|---|
| 九州産石材 | 石材または製品が海を越えて移動した | 直行便か、仲介・交換を重ねたか |
| 半島に類例のある炉・土器 | 技術や生活文化の関係があった | 恒常的な移住か、季節的な来訪か |
| 対馬産胎土の半島系土器 | 島内での製作を含む可能性 | 製作者の出生地、滞在期間 |
| 層位と複数の年代値 | 活動の時間的な重なりを検討できる | 全遺構が同時に使われたこと |
A地点の2019年報告では、調査した炉が住居内に造られたものかを検討し、住居の立ち上がりが確認されなかったとする[5] 。炉の存在をもって、その位置に竪穴住居を描くことは避けたい。地図④では、確認遺跡の記号を置く一方、根拠のない住居群は描かなかった。
年代にも注意が要る。2018年報告のまとめには、B地点の第5層炭化物で概ね7,100~7,000 cal BP、土器付着炭化物で概ね7,250~7,150 cal BP、A地点第10層の炭化物で概ね7,200~7,000 cal BPという整理がある[6] 。これらは試料種・層位の異なる結果であり、一つの集落成立年に平均してよい数値ではない。
炭化材の古木効果や、食物残滓に海産資源が含まれた場合の海洋リザーバー効果も、試料ごとに検討すべき問題である。今回、原測定値をIntCal20やMarine20で再較正したわけではない。既報の年代幅を、その条件を残して紹介した。
6.浅茅湾・三根湾――「穏やかな湾」だけでは説明できない
6.1 三根湾は、環境変遷を追える重要な窓
三根湾では、湾奥の海底から得られたボーリングコアの海産パリノモルフが分析されている。松岡の研究は、海の進入、温暖な内湾環境、その後の堆積環境の変化を論じた[1]。これは、対馬の湾の姿を現代の印象だけで決めないための直接的な資料である。ただし、海成層の高さはそのまま当時の海面高度ではない。海底で堆積した泥は、水面より何mも下にできる。古水深の推定、年代と深度の対応、堆積後の圧密などが必要になる。古い論文中の放射性炭素年代を、較正済みの7,300 cal BPと無条件に一致させることもできない。三根湾について現時点で言えるのは、海面と堆積の履歴を調べる有力な資料があるということである。7,300年前の河口位置、砂州の形、舟を引き上げた浜の位置までは確定していない。
6.2 浅茅湾は支湾単位で考える
浅茅湾は複雑な溺れ谷である7] 。[しかし、同じ湾の中でも、外洋から波が入りやすい場所、入り江の奥、河口に近い場所、急な岩岸では、接岸条件が異なる。海面が低ければ、固定した地形上では一般に湾奥側の水域は狭くなる方向に働く。ただし、その後に堆積した泥や砂を取り除けば、古い谷底が現在の陸地の下へ続く可能性がある。「海面低下による縮小」と「後世の埋積を除くことで見える古い水域」は別の効果であり、湾の面積の増減を単純に決められない。浅茅湾の全域について、同じ年代面を追えるコアと浅海測深を今回そろえることはできなかった。したがって、特定の支湾に縄文の港があったとも、現在の湾内を当時も同じように移動できたとも断定しない。
7.鬼界アカホヤ噴火――同じ時代に近いことと、被災の証明は違う
産業技術総合研究所の大規模噴火データベースは、鬼界アカホヤの年代について、水月湖の編年による7,165~7,303 cal BPや7,253±46 cal BPなどの研究値を紹介している[18] 。「7,300年前」は、こうした年代研究を概数で表す言い方である。古い文献で使われる約6,300年前という放射性炭素年代とは、年代の物差しが異なる。
| 年代の表記 | 意味 | 本稿での扱い |
|---|---|---|
| ¹⁴C yr BP | 放射性炭素の測定に基づく年代 | 暦年代と混同しない |
| cal BP | 較正された暦年代、起点は1950年 | 対象時点の基本軸 |
| cal BC | 較正された紀元前年代 | cal BPとの差の扱いに注意 |
| 「約7,000年前」 | 解説上の概数である場合がある | 原典の年代尺度を確認する |
噴火の影響を対馬に論じるなら、少なくとも三つの段階を分ける必要がある。
第一は火山灰の到達・保存の確認である。対象層の火山ガラスの化学組成、層位、年代が一致すれば、K-Ahを時間の基準として使える。広域に火山灰が分布することから、その地点の降灰厚や生活被害まで自動的に決まるわけではない。
第二は生態系への影響である。南九州では、遺跡の分布や堅果加工具の割合から、地域による生活環境の回復差が議論されてきた[19] 。その知見を対馬の森林や水資源にそのまま適用することはできない。対馬の花粉・炭化物・堆積物の連続記録が必要になる。
第三は社会的な移動である。噴火後に人や物の移動が変わった可能性は研究仮説になる。しかし「南九州の被災者が対馬へ逃れ、越高に住み始めた」という具体的な筋書きは、現段階で裏付けられない。時期が近いことは、移動の原因を示す証拠ではない。
本調査では、越高での噴火当日の被災層、対馬の確定降灰厚、生活の中断と再開を示す連続記録を確認できなかった。これは「影響がなかった」という証明でもない。火砕流による南九州の直接被害、遠隔地の降灰、対馬への津波到達の有無も、それぞれ別に検証すべき問題である。
8.朝鮮半島・九州との海上交通――交流の証拠は強いが、航路は未確定
海を越えて石材や文化要素が移動したことと、どの浜から何時に出航したかを知ることは、証拠の細かさが違う。越高の資料は交流を支持するが、釜山付近から対馬へ一直線に渡ったのか、沿岸移動と複数の寄港を組み合わせたのかは決まらない。航海を検討するため、本稿では半島南部―対馬、対馬―壱岐、壱岐―九州北部の三つの区間に分ける。これは研究を組み立てる枠組みであり、すべての交流がこの順序を通ったことを証明するモデルではない。
| 区間 | 検証すべき条件 | 現時点で言えること |
|---|---|---|
| 半島南部―対馬 | 横断地点、南北への流され方、視認、帰路の風 | 考古資料は交流関係を支持。実際の出入港地点は未確定 |
| 対馬―壱岐 | 南下時の向かい流、潮流、出航待機、舟の耐波性 | 区間として検討可能。成功率の数値は未算出 |
| 壱岐―九州北部 | 沿岸流、上陸浜、海況急変、途中退避 | 候補回廊として図示。定期航路とは認定しない |
舟の対地速度は、舟が水に対して進む速度と海流の速度を、方向も含めて足し合わせたものになる。追い流れで移動できたとしても、帰りは同条件ではない。横からの流れは、目的地を外す原因にもなる。風向が都合よくても、波高が高ければ航海や接岸は難しくなる。したがって「対馬暖流が北へ流れるので、北上交流が成立した」という説明だけでは不十分である。往復の別、季節、天候を待つ時間、舟の推進方法、積載量、夜間航海の可否、湾内での退避を組み込む必要がある。現段階では、古代の舟速を仮定した所要時間も、航海の成功確率も提示しない。地図④の線は、区間ごとの検証対象を示す候補回廊である。線を特定の遺跡間の実際の航跡として読むことはできない。
9.縄文人が見た対馬――生活の場所を決めるのは、湾・水・地面の組合せ
地図④ 確認遺跡と地形から選んだ調査候補を記号で区別した。基図は現在地形。越高、志多留、佐賀を7,300年前に同時存在した集落群としては扱っていない。佐賀貝塚は年代上の注意を注記し、遺跡の正確な座標を未確認のため位置記号を省略した。
舟で島を見ていた人にとって重要だったのは、地図上の島の輪郭だけではない。波から退避できる入り江、舟を引き上げられる地面、生活用水、薪や食料の得られる場所、そして次の区間へ出発できる見通しが、組み合わさっていたはずである。これは生活立地を検討するための仮説であり、個々の地点の利用実績を述べたものではない。今回、三根湾と浅茅湾を接岸・淡水の調査候補として表示したのは、その地形条件を検討できるためである。丸木舟の発見、引き上げ場、係留施設が確認されたからではない。また、湾奥なら常に安全というわけでもない。河口の砂州、浅瀬、増水、外洋からのうねり、局地風を調べなければならない。
越高A地点の背後では、2018年の降雨時に渓流水や海食崖基部からの湧水が観察されている。[3] これは現代の現地観察として、水の経路を考える貴重な情報である。ただし、7,000年以上前にも同じ流量・水質があったとは言えず、恒常的な飲料水源を確定したことにもならない。志多留貝塚は別の遺跡として位置の参照に入れた[20,21] 。
佐賀貝塚は縄文中期・後期を中心とする資料であり、7,300年前の集落へ遡らせなかった[22] 。時期の違う遺跡を同じ色で一枚に並べれば、古代に大きな同時的ネットワークが存在したように見える。その錯覚を避けるため、年代情報を地図の一部として残した。
この地図から描ける具体像は、「半島と九州の間に、海を介した活動に利用されうる湾や谷口を持つ山がちな島があり、その後の越高では両側との関係を示す生活文化が確認される」という範囲である。遺跡のない場所へ住居を描いたり、現在の港名を縄文の港へ置き換えたりすることはしない。
10.結論と今後の研究課題――復元図を完成させるために何が必要か
今回の最大の成果は、現在の地理を共通基図に置き、海岸線・海洋環境・考古資料を同じ精度の情報として扱わずに整理できたことである。対馬西岸の水没遺跡と相対海面の研究は、「縄文海進による一律の高海面」という単純な図を修正する材料になる。一方、越高を7,300年前の噴火と同時の集落として描くことにも、年代上の留保が必要になる。ただし、本稿の地図②は7,300年前の検証済み海岸線復元図には達していない。 地図④も、集落・港・航路の位置を確定した地図ではない。これは表現上の小さな注意ではなく、成果物の到達範囲そのものである。
| 優先順位 | 次に必要な調査 | 解決したい問題 |
|---|---|---|
| 1 | 2024年の越高総括報告書の本文・付表の精読 | 全調査の年代・層位・遺物・座標の統合 |
| 2 | 既存年代試料の一覧化と適切な再較正 | 噴火年代と遺跡活動の重なり |
| 3 | A・B発掘測点の世界測地系への接続 | 遺跡と古汀線の距離の定量化 |
| 4 | 越高・三根湾・浅茅湾の浅海測深と地質断面 | 古地形と現地形の差の把握 |
| 5 | K-Ah同定、花粉・珪藻・海成指標の連続記録 | 降灰・環境変化・海面位置の分離 |
| 6 | 古地形と複数の海面条件によるGIS計算 | 古海岸線を線または検証可能な範囲として提示 |
| 7 | 海流・風浪・舟性能を組み合わせた区間別計算 | 往復航海の可能性と限界 |
2024年の『越高遺跡―発掘調査総括報告書・日韓交流の原点』は書誌を確認したが、本調査では本文を入手できていない[23]。 したがって、それを読んだかのように新しい分析結果を引用することはしなかった。7,300年前の対馬を具体的に理解することは、精密に見える線を一本描くことだけではない。どの線が測量に由来し、どの値が文献上の推定で、どの地点が次の調査候補なのかを読者がたどれることが重要である。本稿の4枚は、その検証を進めるための共通の土台として提示する。
11.参考文献・資料
文献番号は本文と対応する。ウェブ資料は2026年10月19日参照。「本文確認」は全文または当該章を確認した資料、「概要確認」は公的解説・抄録・仕様ページで確認した資料、「書誌のみ」は本文未確認である。
[1] 松岡數充(1992)「海産パリノモルフ化石群集からみた対馬・三根湾における完新世の沿岸海洋環境の変遷」『第四紀研究』31(3), 147–157. https://doi.org/10.4116/jaqua.31.147 (本文確認) [2] 中田正夫・前田保夫・長岡信治・横山祐典・奥野淳一・松本英二・松島義章・佐藤裕司・松田功・三瓶良和(1994)「ハイドロアイソスタシーと西九州の水中遺跡」『第四紀研究』33(5), 361–368. https://doi.org/10.4116/jaqua.33.361 (本文確認) [3] 西山賢一(2019)「越高遺跡A地点 地形・地質調査結果」『考古学研究室報告』54, 35–40. 熊本大学文学部考古学研究室. https://kumadai.repo.nii.ac.jp/record/31653/files/029-046.pdf (当該章本文確認) [4] 文化庁(2025年指定、解説発行年記載なし)「越高遺跡」国指定文化財等データベース. https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00004221 (詳細解説確認) [5] 熊本大学文学部考古学研究室編(2019)『越高遺跡A地点』考古学研究室報告54. 小畑弘己監修、新垣匠・嘉戸愉歩・エンフマグナイ編. https://kumadai.repo.nii.ac.jp/records/31653 (本体・自然科学分析・図版確認) [6] 熊本大学文学部考古学研究室編(2018)『越高遺跡;上御倉古墳』考古学研究室報告53、第1部「越高遺跡調査報告」. 小畑弘己監修、廣重知樹編. https://kumadai.repo.nii.ac.jp/records/31654 、自然科学分析・まとめ https://kumadai.repo.nii.ac.jp/record/31654/files/034-052.pdf (自然科学分析・まとめ本文確認) [7] 環境省(2011年作成、2024年更新)「浅茅湾」閉鎖性海域ネット. https://www.env.go.jp/water/heisa/heisa_net/waters/asowan.html (概要確認) [8] 国土地理院(配信データ・仕様、参照2026)「地理院タイル一覧」「標高タイルの詳細仕様」. https://maps.gsi.go.jp/help/use.html 、 https://cyberjapandata.gsi.go.jp/development/demtile.html (仕様確認、淡色地図・DEM10B由来標高タイル取得) [9] 財務省(2024)『ファイナンス』2024年4月号、対馬税関支署紹介、p.96ウェブ版. https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/denshi/202404/pageindices/index96.html (開削史の記述確認。大船越の開削年には資料間の表記差があるため本文では年を断定しない) [10] Ryan, W. B. F., Carbotte, S. M., Coplan, J., O’Hara, S., Melkonian, A., Arko, R., Weissel, R. A., Ferrini, V., Goodwillie, A., Nitsche, F., Bonczkowski, J., & Zemsky, R.(2009)“Global Multi-Resolution Topography synthesis.” Geochemistry, Geophysics, Geosystems, 10, Q03014. https://doi.org/10.1029/2008GC002332 (データ方法の書誌・概要確認、GMRTグリッド取得) [11] GMRT(発行年記載なし)“GridServer Web Service”; “Terms of Use.” https://www.gmrt.org/services/gridserverinfo.php 、 https://www.gmrt.org/about/terms_of_use.php . Data DOI: https://doi.org/10.1594/IEDA.100001 (仕様・精度上の留保確認) [12] 小泉格(1987)「完新世における対馬暖流の脈動」『第四紀研究』26(1), 13–25. https://doi.org/10.4116/jaqua.26.13 (抄録確認。古い年代軸をそのままcal BPと扱わない) [13] 松島義章(2010)「完新世における温暖種が示す対馬海流の脈動」『第四紀研究』49(1), 1–10. https://doi.org/10.4116/jaqua.49.1 (抄録・書誌確認) [14] 気象庁(発行年記載なし)「対馬暖流とは」. https://www.data.jma.go.jp/kaiyou/data/db/maizuru/knowledge/tsushima_current.html (現代の流路・季節性の解説確認) [15] 気象庁(発行年記載なし)「風」気象に関する用語. https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/kaze.html (季節風の現代説明確認) [16] Kubota, Y., Tada, R., & Kimoto, K.(2015)“Changes in East Asian summer monsoon precipitation during the Holocene deduced from a freshwater flux reconstruction of the Changjiang (Yangtze River) based on the oxygen isotope mass balance in the northern East China Sea.” Climate of the Past, 11, 265–281. https://doi.org/10.5194/cp-11-265-2015 (抄録・方法概要確認) [17] 長崎県(発行年記載なし)「越高遺跡」長崎県文化財データベース. https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/792 (公的解説確認) [18] 産業技術総合研究所地質調査総合センター(発行年記載なし)「鬼界カルデラ」大規模噴火データベース. https://gbank.gsj.jp/volcano/ledb/go.php?volc=Kikai (年代と出典研究の整理を確認。Smith et al. 2013、Albert et al. 2019の年代値はこのDB経由) [19] 桑畑光博(2002)「考古資料からみた鬼界アカホヤ噴火の時期と影響」『第四紀研究』41(4), 317–330. https://doi.org/10.4116/jaqua.41.317 (抄録確認。南九州の成果を対馬の直接証拠とは扱わない) [20] ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH、2025年公開データ)『日本歴史地名大系』施設・地点項目データセット「越高遺跡」「志多留貝塚」. https://doi.org/10.20676/00000456 、 https://geoshape.ex.nii.ac.jp/nrct-poi/resource/43/430000243300.html 、 https://geoshape.ex.nii.ac.jp/nrct-poi/resource/43/430000241900.html (代表座標取得。CC BY 4.0) [21] 対馬市(発行年記載なし)「市指定文化財」志多留貝塚. https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/gyousei/soshiki/kyouiku/bunkazaika/bunkazai/bunkazai/1049.html (遺跡の指定確認。7,300年前の同時性の根拠には使用しない) [22] 長崎県(発行年記載なし)「長崎県佐賀貝塚出土品 一括」長崎県文化財データベース. https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/726 (所在地・主な時期の解説確認。施設所在地の地図を遺跡座標に流用しない) [23] 対馬市教育委員会(2024)『越高遺跡―発掘調査総括報告書・日韓交流の原点』対馬市文化財調査報告書13. https://ci.nii.ac.jp/ncid/BD06775983 (書誌のみ確認、本文未入手)補足書誌:熊本大学文学部考古学研究室編(2017)『越高遺跡B地点』考古学研究室報告52。研究室の刊行物一覧にて確認。 https://www.let.kumamoto-u.ac.jp/history/his/koukogaku/contents/books/hokoku02.html (本文未確認。本稿は2018・2019年報告を優先した)