対馬は7,000年前から海上交流の拠点だったのか―越高遺跡と「3区間航海モデル」から考える、九州・対馬・朝鮮半島のつながり

目次

エグゼクティブサマリー

前回は、「日本海環状交流圏の形成史」をまとめた。今回は、その中でも特に日本と朝鮮半島の橋渡し役を務める対馬に焦点を当てて、深掘りしてみた。対馬は、九州と朝鮮半島の間に位置する島である。その対馬北西部の越高(こしたか)遺跡では、約7,100~6,400年前の地層から、朝鮮半島南部の新石器文化と関係の深い隆起文土器や方形の石組炉、九州産の黒曜石・サヌカイト製石器が発見された〔1・2〕。土器の一部には対馬産の胎土も認められ、異なる地域の文物が単に持ち込まれただけでなく、島で技術や生活文化が受け入れられた可能性がある。本稿の結論は、約7,000年前の対馬が、朝鮮半島南岸と北部九州の文化的接触が具体的に現れた重要な場所だったということである。ただし、越高遺跡だけで、三地域を結ぶ定期交易や、誰がどの航路を航海したかまで証明できるわけではない。そこで本稿では、北部九州―壱岐―対馬―朝鮮半島南岸を三つの航海区間に分ける「3区間航海モデル」を提案する。これは発掘で確認された航路の名称ではなく、海流・季節風・波浪・船体能力を区間ごとに比較するための研究上のモデルである。あわせて、対馬を「通過地点」「生活拠点」「文化の接点」「物資の中継地」のどれとして理解すべきかを検討する。以下ではまず結論と仮説を示し、続く章で先行研究、考古学的証拠、航海条件、今後の課題を順に検証する。事実と解釈、そして未検証の仮説を明確に区別しながら、対馬の歴史的意義を考えたい。

第1章 結論――約7,000年前の対馬で何が起きていたのか

1.1 海峡を越える交流は、すでに始まっていた

今日、対馬というと国境の島という印象が強い。しかし、約7,000年前には現在の国境も国家も存在しない。海は地域を隔てる障壁である一方、漁撈や物資の移動を通じて人々を結びつける空間でもあった。越高遺跡は2025年3月に国史跡に指定された。その重要性は、朝鮮半島由来の要素と九州由来の要素が、対馬の同じ遺跡で確認された点にある〔1〕。朝鮮半島南部の遺跡に類例を持つ約1.1メートル四方の方形炉、韓国新石器時代の隆起文土器、佐賀県腰岳産の黒曜石、多久産のサヌカイトが、互いに離れた地域との結びつきを示している〔1・2〕。少なくとも、対馬が孤立した島ではなかったことは明らかである。約7,000年前の時点で、海を隔てた文化や石材の移動を考えなければ説明できない考古学的資料が存在する。これが今回の出発点となる。

1.2 越高遺跡は、単なる寄港地とは限らない

さらに注目したいのは、隆起文土器の一部に対馬産の胎土が使われている点である〔1〕。もし外来の様式を持つ土器が島の材料で製作されていたなら、単なる輸入品の通過とは異なる現象が生じていたことになる。外来の人々が滞在して製作したのか。島に暮らす人々が新しい技術を学んだのか。あるいは両者が共に生活したのか。現段階では一つに決められない。しかし、これらは「交流があった」という短い説明よりも具体的で、対馬における生活と文化の関係を問う重要な論点である。石組炉も同様である。炉は生活活動に結びつく遺構であり、単に舟が立ち寄っただけでは説明しにくい。越高遺跡を、海上交通の中継地点だけでなく、外来の文化的要素を取り込みながら人々が暮らした場所として検討する価値がある。

1.3 確認されたことと、まだ確認されていないこと

ここで研究上の線引きをしておきたい。九州産石材が対馬に存在することは、石材が産地を離れて移動したことの有力な証拠である。しかし、九州から対馬まで一隻の舟が直接運んだとは限らず、複数の集団による受け渡しも考えられる。朝鮮半島系土器が見つかったことも、製作者の出身地や移住の経路を自動的に確定するものではない。まして、何日おきに舟が往来したのか、春と秋のどちらに航海したのか、積荷の量がどの程度だったのかは分からない。「航海できたはずだ」と「実際に反復的な交易が行われた」は別の主張である。本研究では、①遺物・遺構として確認された事実、②そこから導かれる有力な解釈、③追加検証を要する仮説、を区別する。 この区別を守ることが、対馬交流史を壮大な物語ではなく、検証可能な歴史研究へ進める条件だと考える。

1.4 歴史の「拡大」より「構造変化」に注目する

約7,000年前の文化接触が、そのまま後世の交易制度に発展したと考えるのは早計である。交換する品物、海を渡る目的、集落の役割、航海に関わる人々は、時代とともに変わり得る。ある時期には漁撈活動の延長で接触し、別の時期には石材や装身具の入手が重要になった可能性もある。したがって、本稿は「最初は小規模で、後には必ず大規模になった」という単線的な発展図式を採用しない。むしろ、文化接触、生活活動、物資交換、地域ネットワークの接続という機能が、いつ、どのような組み合わせで現れたのかを問う。これを海峡交流の構造変化という研究課題として位置づける。

越高遺跡と北部九州・壱岐・朝鮮半島南岸の位置図。

第2章 研究仮説――海峡交流はどのように変化したのか

2.1 中心仮説:対馬の役割は一つではなかった

本稿の中心仮説は、対馬の役割が、単なる通過地点に固定されるのではなく、文化接触の場、生活拠点、物資交換の場として時期ごとに異なる組み合わせを示したというものである。検証のため、交流を三つの側面に分ける。第一は土器の様式や製作技術に表れる「文化・技術の接触」、第二は黒曜石・サヌカイト・装身具などに表れる「物資の移動」、第三は住居や炉、漁撈の道具に関わる「現地での生活活動」である。三者が同じ場所に存在したとしても、同じ人々が同じ時期に担ったとは限らない。この区別は、廣瀬雄一が土器、石器・骨角器、装身具の三つのネットワークを分けて検討した研究とも接点を持つ〔3〕。ただし、廣瀬の三層ネットワークは遺物の種類を軸にした考古学的区分であり、以下に示す本稿の「3区間航海モデル」とは別の概念である。

2.2 「3区間航海モデル」の設定

地図の上で九州と朝鮮半島を一本の線で結ぶと、途中に存在する島々の意味が見えにくくなる。そこで、北部九州から朝鮮半島南岸までを、壱岐と対馬を介した三つの海上区間として検討する。

区間 想定する移動 主な検証事項
第1区間 北部九州―壱岐 九州沿岸からの出航、沿岸・島嶼の視認性、潮流
第2区間 壱岐―対馬 開放水面の横断、波浪、船速、偏流
第3区間 対馬―朝鮮半島南岸 海峡横断、流向、風向、上陸可能な海岸

壱岐市によれば唐津東港から壱岐の印通寺港までは現在の航路で約42キロメートル、対馬から朝鮮半島までは最短で約50キロメートルとされる〔4・5〕。ただし、これらは現代の地理・港を基準とする参考値であり、約7,000年前の発着地点や実際の航行距離を意味しない。壱岐―対馬間についても、候補の岬や湾を特定したうえで再計算する。重要なのは三区間を同じ難易度とみなさないことである。それぞれ海流の向き、外洋への開け方、出航・上陸できる場所が異なり、舟に求められる能力も変わる可能性がある。また、越高遺跡への人や物の移動が必ず壱岐経由だったことを示すものでもない。九州から対馬への直航など、競合する経路も比較対象に残す。

北部九州→壱岐→対馬→朝鮮半島南岸の3区間航海モデル。区間距離は発着地の設定に依存する。

2.3 往路と復路は同じ条件ではない

海峡を渡る舟は、目的地に到達できればそれで終わりではない。物資交換が反復されたかを考えるには、復路の成立も重要である。一般に、同じ海域でも、向かう方向が逆になれば海流・風の影響は変わる。気象庁によれば、現在の対馬暖流は海峡から日本海へ流入し、流路や勢力に季節変動がある〔6〕。ただし、現在の海流観測値を約7,000年前の流速として用いることはできない。古海洋研究によって当時の海流の変動幅を検討し、複数の条件を設定する必要がある。さらに、冬季の季節風と高波、夏季の海況、沿岸の海陸風、島や岬による遮蔽効果なども考慮したい。帆を備えた舟だったと決めつけず、まずは櫂による推進を基本条件とし、舟の速度・積載重量・乗員の持久力を変えた感度分析を行う。

2.4 航海できることと、交易が成立することは違う

2019年、国立科学博物館の復元航海では、丸木舟が台湾から与那国島まで225キロメートルを航海した〔7〕。これは単純な構造の舟による外洋横断が技術的に可能なことを示す。ただし、その実験で使われた舟と航海者の能力を、約7,000年前の対馬へそのまま適用することはできない。本稿では、まず三区間それぞれについて航海可能な条件を検討し、次に考古学資料が示す物資の移動と照合する。さらに、同じ種類の遺物が異なる時期にも現れるか、現地製作の痕跡があるかを調べることによって、単発の接触と継続的な交流を区別したい。

2.5 対立仮説と判定条件

3区間モデルだけでは、実際の歴史を説明し尽くせない。そこで、少なくとも三つの競合仮説を並行して検討する。

仮説A:直接往来型。 九州または朝鮮半島南岸から、対馬へ直接航海する集団が中心だった。

仮説B:段階的中継型。 壱岐・対馬などの島々で、人や物が順に受け渡された。

仮説C:複合型。 直航、島を介した中継、漁撈活動に伴う接触が、季節や物資の種類によって使い分けられた。

どの仮説が有力かは、遺跡の年代、石材の産地、土器の製作技術、遺物の分布、そして航海条件を組み合わせて評価する。現段階では複合型に検討価値があるが、結論として先取りはしない。第2章の結論は、「3区間航海モデルは航路の発見ではなく、航海条件と考古学的証拠を照合するための検証枠組みである」という点にある。 次章では、越高遺跡を中心とする先行研究を精査し、このモデルの妥当性を検討する。

仮説A・B・Cの比較概念図。実証経路ではなく研究上のモデルである。

第3章 先行研究――対馬海峡交流はどこまで解明されているのか

約7,000年前の対馬を論じるとき、最初に確認しなければならないのは、どこまでが発掘調査から確かめられた事実で、どこからが研究者による解釈なのかという点である。土器が似ていること、石材が遠方から運ばれたこと、人々が舟で往来できたことは、互いに関係するが同じ現象ではない。本章では、遺跡・遺物、交流構造、海洋環境、航海技術の順に先行研究を整理する。前章までの参考文献番号〔1〕~〔7〕を引き継ぎ、新たな文献には〔8〕以降を付ける。

3.1 越高遺跡の発掘調査――年代と遺構の確実性

対馬市上県町越高にある越高(こしたか)遺跡は、対馬北西部の海岸に位置し、尾根を挟んで約50m離れたA地点・B地点から構成される。文化庁と長崎県の指定文化財資料によれば、年代は縄文時代早期末から前期、約7,100~6,400年前である。2025年3月10日に国史跡に指定された〔1・2〕。最も特徴的なのは、A地点で発見された約1.1m四方の板石を組んだ方形炉跡である。長崎県の解説は、これに類似する規格性の高い炉が朝鮮半島東海岸から南海岸に認められる一方、日本列島では例がないとしている。さらに、両地点では縄文時代前期の土器と朝鮮半島南部の新石器時代の土器群が、層位を伴って出土した〔2〕。ここでいう「層位を伴う」とは、土器が単に同じ場所で拾われたのではなく、土の重なりとの関係が記録されているという意味である。交流を時期ごとに検討するうえでは、極めて重要な条件となる。ただし、遺跡全体の年代幅が約700年あることは、その700年間に同じ交流が途切れず続いたという証拠にはならない。各層の年代と遺物の対応を詳しく確認する必要がある。もう一つの重要な資料は、石器の材料である。佐賀県伊万里市の腰岳産黒曜石による打製石鏃、多久市周辺を原産地とするサヌカイトの削器が出土している〔2〕。黒曜石は産地ごとの元素組成を調べられるため、土器の様式的な類似よりも、物質そのものの移動を強く示す場合がある。越高遺跡には、朝鮮半島側との文化的接触を考える炉・土器と、九州側からの物資移動を考える石材がともに存在するのである。もっとも、「対馬で九州産石材が見つかった」と「九州から対馬へ直航した」は同義ではない。第三者を経由して運ばれた可能性も残る。

3.2 土器研究――形が似ることと製作技術が伝わること

越高遺跡で目立つ隆起文土器は、器の表面に粘土紐などによる盛り上がった文様を施す土器である。朝鮮半島南部の新石器文化との共通性が指摘されているが、注目すべきは文様だけではない。文化庁の資料では、一部の隆起文土器に対馬産の胎土が含まれるとされている〔1〕。もし材料が対馬のものであるなら、完成品が海の向こうから一方的に輸入されたという説明だけでは足りない。現地で同系統の土器が製作された可能性を考える必要がある。ただし、製作者が朝鮮半島から渡った人だったのか、対馬の人が技術を学んだのか、双方の協働だったのかまでは決定できない。土器を比較するときには、形状、文様、胎土、粘土の調整、成形方法、焼成方法をできるだけ分けて検討したい。文様だけが伝わった場合と、製作技術が伝わった場合、さらに人が移住して製作した場合では、歴史的な意味が違うからである。廣瀬雄一は、対馬海峡の新石器時代交流を、土器を中心とする第一のネットワーク、石器・骨角器を中心とする第二のネットワーク、装身具を中心とする第三のネットワークに分けて考察した〔3〕。これは今回の研究に有用な先行モデルである。また、廣瀬による韓日新石器時代の土器交流に関する報告では、早い時期には土器文様の選択的な共有が認められ、その後は土器の共有と物資交換の関係が変化した可能性が論じられている〔8〕。ここからも、土器の類似が弱くなることをもって、交流全体が消滅したと結論づけるのは危険である。

3.3 石器・骨角器――原産地と利用地の間に何があったか

石器の研究では、原産地、石材の状態、加工段階、用途を区別する必要がある。産地が特定できても、それが原石として運ばれたのか、完成した道具として運ばれたのかによって、交換の仕組みは異なる。河仁秀(2006)は、朝鮮半島南岸と九州の新石器時代の交易を、交換品の分布を中心に検討した〔9〕。研究では、九州産黒曜石が朝鮮半島南岸へ移動し、現地で必要な石器に加工された可能性が論じられている。その一方で、半島側の貝製装身具や漁撈用具が対馬・九州方面へ移動したと解釈されている。ここでいう「交換した」は遺物分布から復元された社会的な説明であって、特定の二人が直接物々交換した現場が確認されたわけではない。長崎県の越高遺跡解説には、磨製の銛頭や大型ナイフなど、朝鮮半島南海岸の資料と類似する石器も記されている〔2〕。こうした道具は、海峡両岸で漁撈や海産資源の利用に共通点があった可能性を考える手掛かりになる。しかし、似た環境で似た機能の道具が独立して生まれることもあり得るため、形の類似だけで人や物の移動を断定することはできない。

3.4 装身具――技術よりも社会関係を映す可能性

韓国・釜山の東三洞(トンサムドン)貝塚は、海峡交流を考えるうえで重要な比較対象である。釜山博物館の展示解説では、日本列島系の縄文土器や黒曜石製石器、貝腕輪などが紹介され、九州との交流が説明されている〔10〕。国立金海博物館にも東三洞出土の日本系土器や黒曜石製石鏃の展示資料がある〔11〕。貝腕輪は、石材とは異なる意味を持った可能性がある。日常の実用品だっただけでなく、贈答品、集団間関係の象徴、社会的役割を示す装身具だった可能性も検討されている。ただし、特定の性別・身分・儀礼だけに用いられたと一般化するには慎重でなければならない。黒曜石が道具の素材であるのに対し、装身具は人と人との関係を表していたかもしれない。そうだとすれば、交流は単なる必要物資の調達だけでなく、異なる集団が関係を保つための活動でもあったことになる。

3.5 交流史の研究――拡大ではなく強弱と再編

Lim Sang-Taek(2008)は、朝鮮半島南岸と九州の交流史を三段階に区分し、接触の強さが一定ではなかったことを論じた〔12〕。その整理によると、初期から前期には強い交流が見られ、中期以降に弱まる時期があり、最終段階には再び強まる傾向が認められる。また、接触の中心が対馬側から朝鮮半島南岸へ移るという解釈も示されている。重要なのは、この三段階が今回の「九州―壱岐―対馬―朝鮮半島」という三つの航海区間と全く別の概念だということである。前者は時間的な交流構造の区分、後者は地理的な航海条件の区分である。両者を混同すると、「三つの航海区間が三段階に発展した」といった、資料が支持しない物語になってしまう。この研究は、交流が時代を追うごとに単純に拡大したという仮説を見直す根拠となる。ただし、その三段階の細かな年代を越高遺跡の各層に直接対応させるには、別途、土器編年と年代測定結果の照合が必要である。

3.6 海洋物理学――「対馬暖流に乗ればよい」は正しいか

対馬海峡には、対馬の東側を通る東水道と、西側を通る西水道がある。現代の対馬暖流は、海峡を通って日本海へ流入するが、流速や流向は一定ではない。水野ら(1989)は、東水道の冬季観測で、北東向きの平均流速約20cm/秒を報告している〔13〕。また、Yoshikawaら(2010)はHFレーダーによる海面流速を解析し、東水道で夏季の南西向き反流や、秋冬の岸を横切る成分など、複雑な季節変化を明らかにした〔14〕。この二つの研究は、海峡を「北上する一本の流れ」とみなすことができないことを教える。さらに、航行する舟に対して海流が追い流れとなるのか、向かい流れとなるのか、横流れとなるのかは、航路の方位によって変わる。ただし、これらは近現代の観測である。約7,000年前の実際の流速を示した資料ではない。本稿では古代の海流を断定する代わりに、現代の観測から物理的に考え得る流速範囲を参考にして、条件を変えた感度分析を行う。

3.7 古地理――壱岐の海岸線も固定されていなかった

古代の航海を現在の港と直線で結ぶ場合、もう一つ問題が生じる。海岸線は約7,000年前から現在まで不変だったわけではない。佐々木ら(2020)は壱岐市芦辺港のボーリング資料を分析し、約7,000~6,000 cal BPに相対海面が高い状態にあったこと、調査地点によって開放的な湾から砂浜へ変わる時期が異なったことを示した〔15〕。この成果は、航海の出発・到着地点を現代の港だけで代用することの危うさを示している。例えば、当時利用可能だった湾の入口が現在とは違っていれば、航行距離や上陸の難易度、避難できる場所も変わる。越高遺跡は海岸に位置するが、約7,000年前の具体的な舟着場が発掘で確定したわけではない。遺跡の分布と古地形の復元を組み合わせることが、今後の重要な課題となる。

3.8 舟の復元実験と新しい島嶼考古学

国立科学博物館の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」は、2019年に丸木舟で台湾から与那国島へ約225kmを航海し、45時間余りで到達した〔7〕。この実験は、原始的な道具で製作した丸木舟による外洋航海が、一定の条件下で可能であることを示した。しかし、別の海域の現代の熟練した漕ぎ手による成功を、約7,000年前の対馬海峡の所要時間や実際の航海頻度にそのまま適用することはできない。加えて近年は、島を大陸と列島の「端」ではなく、人・物・知識が集まる結節点として捉える研究も進んでいる。Petrellaが欧州考古学協会で紹介した「Jōmon Sea」関連の対馬・壱岐調査は、陸上と水中の考古資料を組み合わせ、海上移動の役割を再検討する試みである〔16〕。ただし、同報告には用途や産地に関する暫定的な解釈も含まれるため、年代の確定や独立した分析がそろった成果と区別して扱う。

表1 対馬海峡交流に関する主要先行研究の比較

研究・資料 主な対象 確認事項・研究成果 本研究での利用と限界
文化庁・長崎県〔1・2〕 越高遺跡 約7,100~6,400年前の炉跡、土器、九州産石材 約7,000年前の交流の基礎資料。定期交易の証明ではない
廣瀬雄一〔3〕 土器・石器・装身具 遺物の種類ごとに交流ネットワークを検討 文化と物資の移動を区別する枠組み
廣瀬雄一〔8〕 日韓の新石器土器 土器文化の伝播と交流の変化 土器の類似から人の移住を直接断定できない
河仁秀(2006)〔9〕 黒曜石・交換品 朝鮮半島南岸と九州の物資交流を検討 交換構造の参考。具体的な取引や航路は推定
釜山博物館・国立金海博物館〔10・11〕 東三洞貝塚など 日本列島系土器、黒曜石、貝製装身具など 海峡交流の証拠。各資料の年代照合が必要
Lim(2008)〔12〕 日韓新石器時代交流 交流の強弱や接触地域の時期的変化を検討 交流構造変化の仮説と比較。対馬各層との直接対応は未確認
水野ら(1989)〔13〕 対馬海峡東水道 冬季の海流観測 航海モデルの参考。約7,000年前の流速ではない
Yoshikawaら(2010)〔14〕 対馬海峡の表層流 海流の季節変動・空間的変化 往復航海の感度分析。古代への直接適用は不可
佐々木ら(2020)〔15〕 壱岐・芦辺港の古地理 完新世の海岸環境・相対海面変動 古代の発着地の検討。越高の舟着場を特定するものではない
国立科学博物館〔7〕 丸木舟の復元航海 2019年の台湾―与那国島の実験航海 外洋航海の技術的可能性。対馬の実際の航海を証明しない
Petrella〔16〕 対馬の島嶼考古学 陸上・水中資料を含む調査の紹介 島の結節点機能の検討。暫定的な解釈には注意

主要先行研究の比較。

以上の先行研究をまとめると、対馬海峡では、海を隔てた物資や文化的特徴の移動が確かに存在した。一方、個々の航海区間、季節、船速、交流頻度についての直接資料は不足している。次章では、この「確かなこと」と「まだ計算・検証が必要なこと」を分け、3区間航海モデルを検討する。

第4章 明確になったこと――考古学的証拠と3区間航海モデルの照合

4.1 越高遺跡が示す三つの事実

越高遺跡から明確に言えることは、第一に朝鮮半島南部の新石器文化と共通する炉・土器が存在したこと、第二に九州産の石材が対馬へ到達していたこと、第三に対馬の材料を用いた土器が存在し、現地製作の可能性を考えなければならないことである〔1・2〕。この組み合わせは、一つの交易品が偶然漂着したという説明では捉えにくい。物資の移動と文化的な接触が、同じ島の生活遺跡に現れているからである。しかし、越高遺跡が朝鮮半島と九州を結ぶ唯一の経路だったことも、そこに定期的な市場があったことも証明しない。本研究の第一の成果は、対馬の役割を「島を通過したか」だけでなく「島で何が作られ、使われたか」という問いに広げられる点にある。海上ネットワークの結節点は、単なる物資の積み替え場ではなく、生活文化が交わる場でもあり得る。

4.2 A地点・B地点と出土物から検証すべきこと

越高遺跡には、尾根を隔てた二つの地点がある。そこから炉、土器、石器が確認されていることは、地域内での活動の多様性を考える手掛かりになる。ただし、両地点の利用者が同じ集団だったのか、同時に活動したのか、用途が異なったのかについて、指定文化財の概要のみからは判断できない。詳細な発掘報告書で確認したいのは、各層からの遺物数、炉と土器の位置関係、石材の加工くず、火を使った痕跡、年代測定試料の性質である。例えば九州産黒曜石の原石や剥片が多ければ、現地で加工された可能性が高まる。一方、完成品だけが出るなら、異なる流通の仕組みも考えられる。

越高遺跡A・B地点の概念配置と、炉・土器・石材に関する証拠の対応図。

4.3 3区間モデルは何を比較するのか

前章までに設定したモデルは、第1区間「北部九州―壱岐」、第2区間「壱岐―対馬」、第3区間「対馬―朝鮮半島南岸」である。さらに重要な点がある。壱岐に到着した地点と次の出発地点、対馬に到着した地点と朝鮮半島へ向かう出発地点が同一とは限らない。したがって、三つの横断距離だけを足して「九州から朝鮮半島までの航海距離」と呼ぶことも適切ではない。島内の陸上移動、沿岸の舟による移動、舟の引き上げ・積み替え・待機といった時間が加わり得る。以下では計算方法を分かりやすく示すため、前回の研究で仮置きした第1区間40km、第2区間65km、第3区間50kmを使用する。これらは発着地の座標から確定した古代航路距離ではなく、計算手順を説明するための仮定値である。実際の研究では各区間の発着地候補を定め、古海岸線に基づいて再計算する。

4.4 舟の速度だけで計算するとどうなるか

海流と風の影響がなく、舟が一定の対地速度で目的地に直進すると仮定した場合、所要時間は「距離÷速度」で計算できる。仮に平均速度を3km/h、4km/h、5km/hと置くと、表2のようになる。

仮の航海区間 距離 3km/h 4km/h 5km/h
九州―壱岐 40km 13.3時間 10.0時間 8.0時間
壱岐―対馬 65km 21.7時間 16.3時間 13.0時間
対馬―半島南岸 50km 16.7時間 12.5時間 10.0時間

3区間の仮定距離と平均速度別所要時間。距離・速度とも仮定であり、古代の実測値ではない。

例えば第2区間は距離が長くなる設定のため、低速では長時間の連続航行が必要になる。夜間を含む航海、休息、食料や飲料水の確保が問題になるだろう。しかし、これは安全に到達できる確率ではない。波浪によって平均速度が大きく落ちることもあり、航路から外れれば実際の移動距離は長くなる。夜間に漕ぎ続けられるかどうかも、船体・乗員・天候によって異なる。したがって「16時間なら渡れる」と単純に判断してはいけない。

4.5 海流による偏流――距離より重要になる場合

海流の影響を考えるには、流れを航路方向と、それに直角な方向へ分けて考える必要がある。進行方向の流れは対地速度を増減させ、横方向の流れは舟を目的地からずらす。実際には舵や漕ぐ方向を修正するため、単純な足し算では済まないが、偏流の大きさを概算することはできる。例えば、横方向の流速成分が0.2m/秒だと仮定する。これは1時間当たり約0.72kmの横移動に相当する。仮に10時間その影響を受け、修正しなければ、約7.2kmの横ずれになる。16時間であれば約11.5kmとなる。さらに0.5m/秒の横流れを10時間受ければ、ずれは約18kmに達する。

仮の横流れ 8時間 10時間 16時間
0.2m/秒 5.8km 7.2km 11.5km
0.5m/秒 14.4km 18.0km 28.8km

 

仮定した横流れと所要時間による偏流量の比較。0.2m/秒、0.5m/秒は感度分析の設定であり、7,000年前の海流の復元値ではない。

比較的弱い流れでも、長時間受け続ければ無視できない位置のずれが生じ得る、という物理的な原理を示しているのである。現代の観測では東水道・西水道で流れの構造が異なり、季節や沿岸の位置でも変化する〔13・14〕。したがって、対馬海峡を北上する対馬暖流をそのまま舟の追い風のように考えることはできない。実際の計算には各区間の地形、航路方位、時間変化する流速ベクトルが必要になる。

4.6 季節と往復を考慮すると24条件になる

三つの区間それぞれで、北上・南下あるいは往路・復路を別々に考え、さらに春夏秋冬の四季を設ければ、3区間×2方向×4季節=24条件が得られる。これは「古代には24種類の定期航路があった」という意味ではなく、見落としを防ぐための比較枠組みである。例えば、ある季節に第2区間の往路が比較的容易でも、復路で強い向かい流れが発生するなら、同じ舟による反復往来の条件は異なる。また、冬季の高波で出航できる日が減れば、平均流速が有利でも航海機会は限られる。逆に、短い好天の期間を選んで移動する集団であれば、年間平均の海況だけでは実態を捉えられない。この比較を本格的に行うには、現代の季節別の海流・風・波浪を整理したうえで、古気候研究を用いて約7,000年前の条件がどの程度違ったかを幅を持って評価する必要がある。月別の厳密な古代風向や航行成功率が判明しているわけではないため、現時点で「春が最適」「秋が危険」といった順位を確定することは避ける。

4.7 島の視認性・着岸・避泊地という制約

航海では、外洋に出てからの速度ばかりが注目されやすい。しかし、島に近づいたとき安全に上陸できるかどうかも重要である。崖や岩礁が多い海岸では、島が見えていても着岸しやすいとは限らない。風下の入り江があれば一時的に波を避けられる可能性があるが、潮位や波向きによって条件は変わる。また、壱岐や対馬の島内で舟着場が別々の湾に分かれていたとすれば、陸上の運搬路が必要になるかもしれない。生活拠点に石材を運び込むことと、対岸へ出航することが、同じ場所で行われたとも限らない。先史時代の交通ネットワークを考える際には、海上の三本の線だけでなく、島内の集落、海岸、河口、越えるべき地形まで含めたモデルが必要である。壱岐・芦辺港の古環境研究〔15〕は、現在の港が7,000年前にも同じ形で存在したとは限らないことを示す。こうした古地理の検証は、第5章の研究課題につながる。

4.8 考古学的証拠を重ねたとき、どこまで言えるか

ここで航海モデルと考古学的証拠を照合してみよう。越高遺跡には九州産の石材が存在するため、少なくとも九州産地と対馬の間で物が移動したことは確認できる。朝鮮半島系の土器文化に関係する資料も存在するため、半島南部との文化的接触も強く示される〔1・2〕。一方、壱岐を介した三つの区間を、同じ年代の遺物が連続して移動したことは、越高遺跡の資料だけでは示せない。九州から対馬へ直航した場合も、壱岐で受け渡された場合も、さらに複数の集団が関わった場合も、現段階では排除できない。半島由来の文化的要素についても、特定の移民集団が運んだのか、技術と情報が伝わったのかを一義的には決められない。したがって、第2章で提示したA「直接往来型」、B「段階的中継型」、C「複合型」を区別するには、越高遺跡だけでなく、壱岐・九州・韓国南岸の同時期の遺物分布を比較する必要がある。現段階ではCを有力な検討対象に残すものの、「複合型だった」と実証されたわけではない。ここで、三層ネットワークという考え方も効いてくる。黒曜石は段階的に受け渡され、土器技術は人が移動して伝わり、装身具は集団間の贈答で流通した、という複数の仕組みが併存していた可能性がある。ただし、この具体的な組み合わせは本稿の仮説であり、個々の遺物から判定する必要がある。

4.9 後世との比較――勒島・原の辻をどう位置づけるか

時代が下ると、朝鮮半島南岸の勒島や壱岐の原の辻など、弥生時代の対外交流を考える際に重要な遺跡が登場する。これらを比較することには意味があるが、約7,000年前の越高遺跡と直接連続する交易制度があったとみなしてはいけない。むしろ比較すべきなのは、「物資が移動したことを示す証拠」に加えて、集落・倉庫・加工・流通の機能をどの程度まで判定できるかという研究方法である。後世の交易の姿を知っているからこそ、約7,000年前へその制度を遡らせることには慎重でありたい。

4.10 約7,000年前から3,000年前の「構造変化」をどう捉えるか

以上の検討から、対馬海峡の交流を考える際には、単純な交流量の増大よりも、何が交流の中心になったのかを追う方が有効だと考えられる。越高遺跡が示す初期の文化的接触、石材や装身具の流通、後の時期における接触の中心地や交流強度の変化を、同じ尺度で比較する必要がある。Lim(2008)の三段階論は、交流の強さや接触の中心地が変化した可能性を示す〔12〕。また、廣瀬の三層ネットワーク論は、土器・石器・装身具の流通が同一の社会的仕組みで動いていたとは限らないことを考える出発点になる〔3〕。この二つを組み合わせれば、「時間による変化」と「交換品による違い」を区別して研究できる。ただし、これだけで「7,000年前は文化接触型、6,000年前は交易型、3,000年前は広域接続型」と年代を固定することはできない。資料がそろうまでは、構造変化は検証すべき仮説として扱う。

越高遺跡を起点にした「文化・技術の接触」「物資の移動」「生活拠点の機能」と、その後の交流構造変化を整理する仮説図。年代区分は未確定。

4.11 現段階で明確になったこと――実証と未実証の境界

第一に、約7,000年前の対馬に朝鮮半島南部との文化的接触を示す遺物・遺構が存在したことは、強い考古学的根拠を持つ。 方形炉や土器は、その具体的な証拠である。

第二に、九州産石材が越高遺跡へ到達していたことも、物質移動を示す強い証拠である。 ただし、石材が何隻の舟、何人の手を経て運ばれたかは分からない。

第三に、対馬産胎土を使った隆起文土器は、島での製作と文化受容を検討する重要な手掛かりである。 しかし、製作者の出身地や社会的な関係までは決定できない。

第四に、3区間航海モデルは区間ごとの航海条件を比較するのに有効だが、実際に使われたルートを確定する証拠ではない。 島内移動も含む複合的な交通網を考える必要がある。

第五に、海流・風・波浪は往復で条件が異なり、流向の横成分は大きな偏流を生じさせ得る。 ただし、提示した速度と偏流量は物理的な説明のための仮定値である。

第六に、交流構造は時代ごとに変わっていた可能性が高いが、対馬を含むすべての地域で同じ変化が起きたと確認されたわけではない。 遺物の種類、出土地、年代を分けた比較が必要である。

本章で最も重要な発見は、「7,000年前の対馬に交易港があった」と言い切ることではない。越高遺跡は、異なる地域の文化・物資・生活活動が出会った場所だったと考えるに足る資料を備えている。 その背景にあった航海と交流の仕組みを、どのように検証すればよいのかが、具体的に見えてきたのである。次の第5章では、越高遺跡の層位と年代、石材の産地分析、古海岸線、船体能力、24条件の航海計算、さらに交流頻度を判定する方法を研究課題として整理する。

第5章 今後の検討事項――対馬海峡交流の謎をどう解明するか

第3・4章で確認したのは、約7,000年前の越高遺跡に朝鮮半島南部と九州の双方に関係する資料が存在すること、そして海峡航海の条件を区間ごとに分けて検討できることである。しかし、そこから定期的な交易、特定の航路、同じ人々による往復航海まで導くことはできない。本章では、何を追加調査すれば仮説を前進させられるかを、優先順位と判定方法を明確にして整理する。

5.1 越高遺跡の年代と層位を精査する

最優先課題は、越高遺跡のA・B両地点の発掘資料を、年代ごとに整理し直すことである。越高遺跡は約7,100~6,400年前に位置づけられるが、この約700年の幅を、一つの連続した交流活動として扱ってはいけない〔1・2〕。必要なのは、炉の使用時期、隆起文土器と縄文土器の層位的な関係、九州産石材の出土層、各層の年代測定結果を対応させる作業である。放射性炭素年代については、測定試料の種類や混入の可能性、較正暦年代の幅も確認する。複数の出土物が「同じ遺跡」にあることと、「同時期に利用された」ことは違うからである。例えば、朝鮮半島系土器が多い層と九州産黒曜石が多い層が一致すれば、二方向の交流が同時期に存在したという解釈が強まる。一致しなければ、対馬の交流相手や物資が時間とともに変化したという別の説明を検討すべきだろう。こうした層位の検証が、構造変化を論じるための出発点となる。

5.2 土器の製作地と製作者を区別する

越高遺跡の隆起文土器には対馬産胎土のものが含まれる〔1〕。これは現地で製作された可能性を示すが、「朝鮮半島から移住した人が作った」という結論を単独で導くわけではない。今後は、粘土の鉱物組成、混和材、成形技法、焼成痕を比較し、朝鮮半島南岸の土器と対馬の土器の共通点を検証したい。材料が対馬産で技法が外来系なら、技術が島で再現された可能性がある。材料も製作痕も異なれば、別の生産過程を想定する必要がある。さらに、炉と土器、生活道具の出土位置を照合し、そこで調理や加工などの活動が行われたかを検討する。外来文化の要素が存在することと、特定集団の移住や長期居住を証明することは、分けて考える必要がある。

5.3 黒曜石とサヌカイトの「移動の仕組み」を調べる

九州産黒曜石やサヌカイトの存在は、海を越えた物資移動の強い根拠である。しかし、それが原石、剥片、完成品のどの状態で運ばれたかによって、交換の仕組みは変わる。各地点・各層で産地別の点数と重量を整理し、原石、加工途中の剥片、完成石器を分けて比較したい。加工くずが多ければ、石材が島内で加工された可能性が高まる。完成品が中心なら、道具として持ち込まれた可能性もある。使われ方を調べる使用痕分析も重要である。ただし、現地加工が確認されても、九州から対馬への直接航海が確定するわけではない。壱岐などでの受け渡しを含め、複数の経路を比較する必要がある。

5.4 約7,000年前の海岸線と発着地を復元する

現在の港と港を線で結んだ航路図は、約7,000年前の実際の航路図ではない。佐々木ら(2020)は、壱岐の芦辺港周辺について、約7,000~6,000 cal BPに相対海面が高い状態にあったことや、湾の環境が時期・地点によって変化したことを示した〔15〕。今後は九州北岸、壱岐、対馬、朝鮮半島南岸について、当時の海岸線、内湾、河口、砂浜、岩礁、避泊可能な入り江を地図上で復元する。越高遺跡についても、生活場所と想定される舟着場が同じだったと決めつけない。発着地を変えれば、航海距離だけでなく、上陸の難しさも変化する。

現代の海岸線と古海岸線復元の概念比較。復元根拠のある地点と未調査地点を区別する。

5.5 3区間×2方向×4季節の航海モデルを検証する

本稿が提案する3区間航海モデルは、北部九州―壱岐、壱岐―対馬、対馬―朝鮮半島南岸に分け、それぞれの往路・復路と四季を検討するものである。組み合わせは計24条件となる。これは当時24種類の航路が存在したという意味ではなく、自然条件の違いを見落とさないための分析枠組みである。モデルには、船体の速度、乗員数、漕ぐ時間、積載量、海流ベクトル、風、波浪、夜間航行の可否を入力する。第4章で示した時速3~5kmや横流れ0.2~0.5m/秒は計算方法を説明する仮定値であり、約7,000年前の実測値ではない。現代の対馬海峡でも表層流には複雑な季節変化があるため〔13・14〕、古代については一つの値ではなく複数の条件幅で検証する。比較する結果は、単純な所要時間だけではない。目的地への到達に必要な進路修正、漕ぎ続ける負担、出航できる天候の条件、帰路に必要な条件などである。特に、一度の横断が技術的に可能であることと、継続的な往復交易が成立することを分けて評価したい。

表3 対馬海峡における24条件の航海モデル設計

区間 方向 季節 海流 風浪 舟の条件 評価項目
九州―壱岐 九州→壱岐 春 未入力 春季条件 基準艇A 時間・偏流・着岸
九州―壱岐 九州→壱岐 夏 未入力 夏季条件 基準艇A 同上
九州―壱岐 九州→壱岐 秋 未入力 秋季条件 基準艇A 同上
九州―壱岐 九州→壱岐 冬 未入力 冬季条件 基準艇A 同上
九州―壱岐 壱岐→九州 春 未入力 春季条件 基準艇A 同上
九州―壱岐 壱岐→九州 夏 未入力 夏季条件 基準艇A 同上
九州―壱岐 壱岐→九州 秋 未入力 秋季条件 基準艇A 同上
九州―壱岐 壱岐→九州 冬 未入力 冬季条件 基準艇A 同上
壱岐―対馬 壱岐→対馬 春 未入力 春季条件 基準艇A 時間・偏流・航続性
壱岐―対馬 壱岐→対馬 夏 未入力 夏季条件 基準艇A 同上
壱岐―対馬 壱岐→対馬 秋 未入力 秋季条件 基準艇A 同上
壱岐―対馬 壱岐→対馬 冬 未入力 冬季条件 基準艇A 同上
壱岐―対馬 対馬→壱岐 春 未入力 春季条件 基準艇A 同上
壱岐―対馬 対馬→壱岐 夏 未入力 夏季条件 基準艇A 同上
壱岐―対馬 対馬→壱岐 秋 未入力 秋季条件 基準艇A 同上
壱岐―対馬 対馬→壱岐 冬 未入力 冬季条件 基準艇A 同上
対馬―朝鮮半島 対馬→半島 春 未入力 春季条件 基準艇A 時間・偏流・着岸
対馬―朝鮮半島 対馬→半島 夏 未入力 夏季条件 基準艇A 同上
対馬―朝鮮半島 対馬→半島 秋 未入力 秋季条件 基準艇A 同上
対馬―朝鮮半島 対馬→半島 冬 未入力 冬季条件 基準艇A 同上
対馬―朝鮮半島 半島→対馬 春 未入力 春季条件 基準艇A 同上
対馬―朝鮮半島 半島→対馬 夏 未入力 夏季条件 基準艇A 同上
対馬―朝鮮半島 半島→対馬 秋 未入力 秋季条件 基準艇A 同上
対馬―朝鮮半島 半島→対馬 冬 未入力 冬季条件 基準艇A 同上

注:基準艇Aは比較用に設定する仮想の櫂走艇。海流の進行方向成分・横方向成分、各季節の風浪、船体性能は未確定。航海計算は未実施。

5.6 直接往来型・中継型・複合型を判定する

第2章では、A「直接往来型」、B「段階的中継型」、C「複合型」の三つの仮説を設定した。これを比較するためには、越高遺跡だけでなく、同時期の九州、壱岐、対馬、朝鮮半島南岸の遺物を同じ基準で整理する必要がある。例えば、同じ産地の石材が複数の島に、年代の整合する層位から出土すれば、中継経路の可能性を検討しやすくなる。しかし、複数地点で同じ石材が見つかることだけでは、実際にその順で運ばれたとは言えない。また、壱岐で資料が見つからないことも、保存状態や調査地点の偏りがある以上、壱岐を経由しなかった証明にはならない。仮説Cが柔軟で説明しやすいからといって、最初から正しいと決めるべきでもない。各仮説が予測する証拠と、実際に確認された証拠との差を比較し、検証に耐えるモデルを残すことが必要である。

5.7 交流の頻度と継続性をどう判定するか

約700年にわたる遺跡の年代幅を根拠に「700年間、交易が続いた」と表現するのは適切でない。交流が一時的に集中した可能性も、長い中断を挟んだ可能性もある。時期別の出土数量や石材産地の構成比、外来系土器の比率を比較する方法が考えられる。ただし、遺物数は発掘面積や保存条件、集落規模の違いにも影響されるため、そのまま交易回数を表すわけではない。調査量で補正し、年代ごとの変化を比較する必要がある。Lim(2008)は、朝鮮半島南岸と九州の接触の強弱や中心地域が時期によって変化したと論じている〔12〕。越高遺跡の資料をこの広域的変化の中に位置づけることが、単なる交易量の増加ではない「交流構造の変化」を確かめる鍵となる。

5.8 対馬の出土資料を横断的に比較する

対馬の研究は、越高遺跡だけで完結させるべきではない。佐賀貝塚など島内の他遺跡について、漁撈具、土器、石器、装身具の年代と分布を比較し、地域によって交流の役割が異なったかを検討する必要がある。実際、対馬博物館では2026年10月3日から12月6日まで、越高遺跡の史跡指定を記念した特別展「縄文時代の対馬社会」が開催されている〔17〕。隆起文土器や石器、佐賀貝塚の漁撈具などが紹介されており、複数遺跡を横断して資料を比較する貴重な機会である。展示は新しい分析結果の証明そのものではないが、今後読むべき発掘報告書や、確認すべき出土資料を選ぶうえで有用であろう。

第6章 まとめ――対馬の7,000年前の歴史は何を語るのか

6.1 結論の再確認

本研究で最も確実に言えることは、約7,100~6,400年前の対馬・越高遺跡に、朝鮮半島南部の新石器文化に関連する炉・土器と、九州産石材が存在したという事実である〔1・2〕。対馬産胎土を用いた土器は、外来文化の要素が島内の生活や製作活動に取り込まれた可能性を示す。したがって、対馬は約7,000年前の時点ですでに、海峡を越える文化的接触と物資移動を考えるうえで重要な場所だった。この結論は、定期交易や特定航路を実証したという意味ではない。

6.2 対馬は通過地点だけだったのか

対馬は地理的に九州と朝鮮半島の間にある。しかし、越高遺跡の重要性は、その位置関係だけにあるのではない。炉や土器、石器が出土する生活の場に、複数地域と関係する特徴が現れていることである。このことから、対馬は単に舟が立ち寄る島ではなく、生活し、道具を作り、異なる文化的要素を受け入れる場でもあった可能性がある。対馬の役割を「通過」「中継」「生活」「文化接触」に分けて検討することが、古代交流の実像に近づく方法となる。

6.3 海流・航海モデルから分かったこと

3区間航海モデルは、北部九州―壱岐―対馬―朝鮮半島南岸を一つの直線として捉えず、区間ごとの航海条件を比較するために設定した。海流による偏流は、弱い流れでも長時間にわたれば無視できない。往路と復路、季節ごとの違いも重要である。しかし、仮定した距離・船速・流速から得た所要時間や偏流量は、実際の古代航海の記録ではない。今後は古海岸線や船体性能の研究と照合し、直接往来型、中継型、複合型のどの仮説が考古資料を最もよく説明するかを比較する必要がある。

6.4 交流史は一直線の発展ではない

約7,000年前の接触が、そのまま弥生時代の交易拠点につながったと断定することはできない。例えば、壱岐の原の辻遺跡では、弥生時代の船着場跡や大陸系の遺物が確認され、明瞭な対外交流の拠点として評価されている〔18〕。しかし、そこまでの数千年の間には、社会構造、生活の仕組み、交換品、航海条件の変化があったはずである。今回の研究が示すのは、海上交流を単純に拡大した歴史とみなすのではなく、接触相手、交換品、拠点の役割が変わる「構造変化」として検討する必要性である。何が継続し、何が変化したのかを、年代を分けて調べることが重要となる。

6.5 日本海交流史への展望

対馬海峡の研究は、日本海周辺全体の交流史ともつながる。北陸のヒスイや北海道産黒曜石のように、先史時代の日本列島には広域的な物資移動が存在した。一方、日本海を取り囲む地域が同時期に一つの環状交流圏を形成していたことは、まだ証明されていない。対馬は、その大きな問いを考えるための具体的な出発点となる。考古学が示す「物が届いた」という事実と、海洋物理が検討する「どのように運べたか」という可能性を重ねることで、古代の人々の交通世界を少しずつ復元できるだろう。約7,000年前の対馬の重要性は、後世の国際交易がすでに完成していたことではなく、海を隔てた文化・物資・生活が交わる具体的な痕跡を、今日に残していることにある。 その痕跡を一つずつ検証することが、対馬から日本海へ広がる古代交流史の解明につながる。

参考文献

〔1〕文化庁「国指定文化財等データベース:越高遺跡」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00004221

〔2〕長崎県「長崎県の文化財:越高遺跡」https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/792

〔3〕廣瀬雄一(2023)『対馬海峡をめぐる先史考古学』同成社。ISBN 978-4-88621-920-6。

〔4〕壱岐市「壱岐市の概要」
 https://www.city.iki.nagasaki.jp/soshiki/somuka/soumuhan/shokai/index.html

〔5〕内閣府「対馬エリア」
 https://www8.cao.go.jp/ocean/kokkyouritou/ritou_kankou/area/area_8.html

〔6〕気象庁「対馬暖流とは」
 https://www.data.jma.go.jp/kaiyou/data/db/maizuru/knowledge/tsushima_current.html

〔7〕国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」
 https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/

〔8〕中央大学文化科学研究所「東アジア先史社会の物質文化の拡散と環境変動からみた文化史」シンポジウム開催報告(廣瀬雄一「韓日新石器時代の土器交流」報告要旨を含む)。
https://www.chuo-u.ac.jp/research/institutes/culturalscience/activity/symposium/symposium02/

〔9〕河仁秀(2006)「新石器時代韓日文化交流と黒曜石」韓国学術誌掲載論文(KCI)。
 https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001006933

〔10〕釜山博物館「東三洞貝塚展示館:東三洞貝塚人の対外交流」。
https://museum.busan.go.kr/jpn/dsmexhibit02

〔11〕国立金海博物館「加耶以前の人々の暮らしと文化:常設展示」。
 https://gimhae.museum.go.kr/jp/html/sub02/020101.html

〔12〕Lim, Sang-Taek(2008)“New Perspectives on Socioeconomic Interchanges between Southern Korean Peninsula and Japanese Kyushu Island during the Neolithic Period.” Yongnam Archaeological Review, 47, 87–111.  https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001295572

〔13〕水野信二郎ほか(1989)「東水道における冬期対馬暖流の測定とその季節変動の評価」『日本海洋学会誌』45(6), 375–384。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kaiyou1942/45/6/45_6_375/_article/-char/ja

〔14〕Yoshikawa, Y. et al.(2010)“Seasonal variations of the surface currents in the Tsushima Strait.” Journal of Oceanography, 66, 223–232.
https://doi.org/10.1007/s10872-010-0020-1

〔15〕佐々木聡史ほか(2020)「長崎県壱岐市芦辺港における完新世の古環境と相対的海水準変動」『Laguna(汽水域研究)』27, 1–18。
https://doi.org/10.60290/laguna.27.0_01

〔16〕Petrella, D. “Onigasaki 2024: Archaeological Research on Tsushima Island, Japan.” European Association of Archaeologists, The European Archaeologist, project overview.
https://www.e-a-a.org/EAA/News___Publications/TEA_85_content/Project_Overview.aspx

〔17〕対馬博物館(2026)特別展「縄文時代の対馬社会」(2026年10月3日~12月6日)。
https://tsushimamuseum.jp/exhibition/2432/

〔18〕長崎県「原の辻遺跡」長崎県文化財データベース。
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/479

以上

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