櫛目文土器は日本の縄文土器と欧州の縄目文土器を結ぶミステリーのピースかもしれない。

はじめに

縄文土器は独特だ。縄文人や縄文文明はミステリーがいっぱいだけど。しかし、教科書等ではその魅力を十分に子供達に伝えきれていない気がする。そして、以前、ヨーロッパの古代に利用されていた縄目文土器について投稿した。昨日から国立遺伝子学研究所の斎藤成也教授の著書「日本人の源流」を読んでいて、櫛目文土器を知った。今日はそんな櫛目文土器を中心に古代について調べてみた。なぜ欧州に、日本の縄文土器にそっくりの縄目文土器が出現するのかが不思議だったが、個人的見解だけど、それを結ぶのが櫛目文土器かもしれない。つまり、日本から欧州までをつなぐミステリーのピースだ。

縄文土器と縄目文土器

縄文土器

縄文土器(jomon rope pottary)とは、日本列島で縄文時代に作られた土器とされている。具体的な年代によって、その作風は異なる。年代は、草創期(約16,000年前〜)、早期(約11,000年前〜)、前期(約7,200年前〜)、中期(約5,500年前〜)、後期(約4,700年前〜)、晩期(約3,400年前〜)などで分類される。縄文土器というと底が丸いというイメージが強いが、そこが丸いのは創成期のものだ。早期になると底が尖った形となり、前期以降は底が平になる。底の形が異なるのは何故だろう。それについての考察はあまりみないが、個人的には利用する場所が異なるのではないかと思う。つまり、陸上での利用以外に海上(船)で利用したのではないだろうか。この辺りは今後の調査に期待したい。

(出典:狭山市教育委員会

縄目文土器

一方の縄目文土器(Coded ware pottary)では、紀元前6000から紀元前1600年にかけて現在のヨーロッパに広まった土器だ。詳しくは、以前の投稿をご参照願いたいが、縄文土器と外見的にはそっくりだと思う。なぜか、縄文土器との関係については一般的にはあまり論じられていないが、今回の櫛目文土器(Comb-pattern pottary)がその謎を解く鍵なのかもしれない。

(出典:日本人の起源

櫛目文土器

フィンランドの櫛目文土器

櫛目文土器とは、新石器時代のユーラシア北部において使用された土器の名称である。日本語のWikiでは次のような説明がある。東は遼東半島、西はフィンランドまで幅広く利用されたという記述は何を意味しているのだろうか。フィンランドやエストニアに旅行したときに感じた遺伝子の近さを思い出す。特に、エストニア人は、ヨーロッパの日本人と呼ばれるほど真面目で大人しく、勤勉でシャイだった。

櫛目文土器(Wikiより)
櫛目文土器または櫛文土器とは櫛歯状の施文具で幾何学的文様を施した土器の総称である。器形は尖底あるいは丸底の砲弾形が基本的である。新石器時代においてユーラシア大陸北部の森林地帯で発達し、バルト海沿岸、フィンランドからボルガ川上流、南シベリア、バイカル湖周辺、モンゴル高原、遼東半島から朝鮮半島に至るまで広く分布する。沿海州やサハリン、オホーツク海北岸からも出土している。最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃-紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、アンガラ川上流域のウスチ・ベラヤ遺跡第IIa層(前5千年紀)、エニセイ川流域のウニュク遺跡(前4千年紀終末~前3千年紀初頭)、西シベリアの沿オビ川地域(前4千年紀終末~前3千年紀後半)から出土し、フィンランドでは紀元前4200年以降、朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れることから、遼河地域を原郷にして朝鮮や、西はシベリアを経て北欧まで拡散していったようである。これはウラル語族(特にフィン・ウゴル系民族)/Y染色体ハプログループN1a1の拡散と関連していると考えられる。実際に、新石器時代後期のロシアの櫛目文土器文化の遺跡の人骨からハプログループN1a1が検出されている。日本の縄文土器にも類する土器(曽畑式土器)があり、また、弥生土器にも似た文様をもつものがある。


(出典:Wiki)

 韓国の櫛目文土器

韓国の國立中央博物館のホームページにアクセスすると、櫛目文土器について詳しく記載している。ただ、日本語と英語と韓国語では説明している内容が全く異なる。良い意味で考えれば、読み手を考慮した記載になっているのかもしれない。説明文(和訳)を簡単にそれぞれ紹介しておきたい。

日本語での説明

次のように日本人が北朝鮮の油坂貝塚を調査してこの櫛目文土器を発掘したと、控え目に紹介している。

咸鏡北道清津市農圃里油坂貝塚から出土した。1933年に日本人横山将三郎が踏査して遺物を採集した。細かい砂粒が混ざった細かい胎土を用いており、外面は赤褐色を帯びる。器形は平底の盌形で、底部でややすぼまった後に口縁部に向かって広がる。口縁部は直立する。胴部に2条の列点文が平行にめぐらされる。油坂貝塚は農圃里遺跡として知られており、隣接した元帥台貝塚と共に韓半島東北地方における新石器時代の新しい時期を代表する遺跡である。


(出典:韓国國立中央博物館)

英語版での説明(和訳)

英語での説明はやや長くなる。日本人が発見したという記述は全くない。逆に、古代朝鮮の地域文化の特徴である櫛目状の土器と自慢している。また、櫛目文土器の1000年前にも盛上文土器があるというが、これはなんだろうか。さらに、「櫛目文土器の特徴である形や装飾的なモチーフは韓国独自のものであり、朝鮮半島以外ではほとんど見られない」とまで主張している。日本の縄文土器を知らないはずがないのに理解できない。

人類最初の発明品の一つである陶器は、土、水、火を組み合わせて作られます。陶器が発明される前は、木や葦、革などの有機物で作った容器に食料を入れて保存したり、運んだりしていました。陶器が発明されたことで、食べ物の保存が格段に容易になっただけでなく、食べ物を調理することができるようになり、食べることのできるものの数や種類が飛躍的に増えました。朝鮮半島で発見された最古の土器の中には、紀元前6000年頃に出現した「盛上文土器(raised-design pottery)」があります。その約1000年後には、櫛目文土器(comb-pattern pottery)に取って代わられ、朝鮮半島の中西部で始まり、その後急速に広まっていきました。この櫛目文土器は、先史時代のソウル市耽羅洞(アムサドン)の集落跡から出土したものである。口が広く底が狭いV字型のシンプルな形をしており、表面全体に線と点で幾何学的な模様が刻まれています。専門家は、朝鮮半島の自然環境と交流していた新石器時代の人々の世界観を表現するために作られたデザインだと考えている。この土器の特徴である形や装飾的なモチーフは、韓国独自のものであり、朝鮮半島以外ではほとんど見られない。そのため、韓国の新石器時代の文化は、しばしば “櫛目文土器文化 “と呼ばれています。古代朝鮮の地域文化の特徴である櫛目状の土器は、紀元前1000年頃には減少し始めた。結局、新石器時代のこのタイプの土器は、農耕を中心とした韓国青銅器時代の代表的な装飾のない無地の土器(undecorated pottery:ミンムンイ・トギ)に同化し、取って代わられました。

韓国語版での説明(和訳)

韓国語版になるとさらに記述が倍増する。韓国の新石器文化を櫛目文土器文化と呼ぶと自画自賛している。また、紀元前1500年ごろに模様のない土器に変わると説明しているが、その理由に関する記述はない。「様々な文様を介して新石器時代の人々の美的感覚を垣間見る」と土器を称賛しながらも、「すぐに捨てずに修理して再び使おうとした」が意味不明だけど、修理しようとしてできなかったという意味ではないかと思った。韓国語版の説明はあまりに長いので、巻末に参考として付記する。

(出典:韓国國立中央博物館)

櫛目文土器と縄目文土器

日本と韓国は文化も近いし仲良くしましょうという主旨で、下のように櫛目文土器と縄文土器を並べた写真を掲載しているようだが、どうみてもこれは同じ文化のもとで作成したものではないか。唯一異なるのは、櫛目文土器の下部には小さな穴が数個空いていることだ。縄文土器にはそんな穴はない。先の國立中央博物館の韓国版の記述では、「土器を修理した跡」であり、「穴と穴の間を紐で縛って使用」とあるが、そうなのだろうか。どうも疑問が残る。

(出典:韓国と日本の文化交流)

曽畑式土器と櫛目文土器

櫛目文土器を調べると、曽畑式土器(そばたしきどき)との類似性についての記述があった。曽畑式土器とは熊本県宇土市の曽畑貝塚から出土した土器である。縄文時代前期の標式土器であり、九州や沖縄から見つかっている。朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通している。日本語版のWikiでは、「櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている」書いているが、これには反論もされている。Atworksの著者は次のように指摘している。自分もこの意見に賛成だ。

朝鮮半島本土では、約12000~7000年前の遺跡が見つからない。この約5000年の間、朝鮮半島は無人だったのである。韓国・北朝鮮の最古の新石器時代の遺跡は、済州島の高山里遺跡で、約10000年前~7000年前とされている。この済州島の遺跡では、隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっていて、似たものが日本にもある。済州島は対馬の近くであり、ほぼ日本と言っていい。7000年前まで人が住んでいなくて、突然、櫛目文土器が発見されているのである。どう考えても、朝鮮の櫛目文土器を作ったのは、朝鮮半島にわたった縄文人が作ったと考えるほうが自然である。今の学者の人たちが、よく使いたがる朝鮮半島の影響だが、無人の半島に文化が育つわけがない。


(出典:artworks)

まとめ

縄文人とは、寒冷期にはユーラシア大陸と繋がれていた日本列島が、約7000年前の温暖化に伴う縄文海進によって、大陸と切り離された民族だ。中国の呉や越もかつては同根という説もある。また、7300年前には鬼界カルデラの大噴火も発生している。海面がどんどん上がってきて、それまで住んでいたところが海になり、高い場所を目指したら、今度は大噴火と火山灰で四国エリアや九州北部は壊滅だった。このため、縄文人はまさに生き残りをかけて北や西や南に移動したのだと思う。北に向かった民族が縄文土器の文化を中国・朝鮮からシベリアを抜けて、モンゴル高原、バイカル湖、南シベリア、ボルガ側、フィンランドやバルト海に向かったと考えるのが自然なのではないだろうか。そのように考えると、突然、高度なシュメール文化を持つシュメール人がユーラシア大陸西部に現れたこととも関係したという可能性も浮上してくる。土器のことを考えるとドキドキする。

以上

最後まで読んで頂きありがとうございました。

参考:櫛目文土器の韓国語版の説明(和訳)

櫛目文土器:イジョングン

1万年前、長く踊った氷河期が終わって気候が暖かくなり、人間を取り巻く自然環境も大きく変わりました。土器は、変化した周囲の環境に適応するために、人類が発明したツールの一つであるが、旧石器時代の生活様式から抜け出し自然資源の活用、食品の調理、定着生活など、人類の生活の大きな変化を導く中核と位置づけされます。さらに、韓国において櫛目文土器は新石器時代の文化を理解する上で、最も重要な新石器時代を象徴する遺物の一つです。
土器の出現と意味
新石器時代の人々は、偶然に粘土が火に焼けたら堅くなるという事実を知り、土で器の形をもたらして火に焼いて土器を作って使用し始めました。土器が作られる前に革や植物の茎で作ったものを利用して食べ物を保存して輸送しました。しかし、土器を作り、液体を保存したり、火の食品を調理することが可能になることにより、食生活に大きな変化が生じます。つまり、以前はその日に食べたり、火に焼いて食べるしかなかったが、土器を利用して、様々な調理が可能となった。有害または摂取が難しかった植物資源も食料に活用できるようになり、食糧資源がより多様化した。不確実な狩りの代わりに、周辺の様々な植物資源を食料に活用しながら、安定した食生活の維持が可能になり、これにより、人々は一箇所に比較的長く滞在できるようになった。新石器時代に作られた土器は、しばしば櫛目文土器として知られています。しかし、韓国で最初に作られた土器は柄がない「ゴサンリ式土器」と呼ばれるものです。済州島ゴサンリで確認された。旧石器時代の石器製作技術が確認され、紀元前8000年ごろと推定されています。
重ね柄土器、押し模様土器、櫛目文土器
ゴサンリ式土器と一緒に櫛目文土器に先立って作成された別の土器としては重ね柄土器と押し模様土器があります。重ね柄土器は土器の外側に泥で作られた帯(縄?)を付けて様々な装飾を施した土器で、釜山、統営、金海を中心とする同海岸を中心に東海岸地域の襄陽と古城などが確認されています。紀元前6000年ごろから紀元前3500年頃まで使用されたが土器は「ゴサンリ式土器」が確認されるまで、韓国で最も長く使用された土器として知られてきました。押し模様土器はボウルの口の周りを柄刻でクリックするか、刺し柄をあしらったもので、つかの間の柄土器と同じ時期と分布圏を持っています。櫛目文土器は底が尖った貝の形の形をして土器表は点と線で構成された幾何学的な模様で装飾された土器です。紀元前4500年頃、中西部地域を中心に現れた後、紀元前3500年ごろ、朝鮮半島全域に広がっています。以前の重ね柄土器や押し模様土器に比べて広い分布圏を持って長い間使用されている代表的な土器であるため、韓国の新石器文化を櫛目文土器文化と呼ぶこともあります。
櫛目文土器の文様と地域差
韓半島全域で確認されている櫛目文土器はボウルの形と装飾された模様に応じ中西部地域、南部地域、東北地域、西部地域の4つの地域群に分割もあります。漢江と大同江を中心とする中西部の櫛目文土器は先の尖った床とまっすぐ線口をしている細長い貝の形が特徴です。最初は土器の外側を口 – 胴 – 底の三つの部分に分けて、それぞれの部分に他の模様を満たした土器を作ったが、次第に底や胴体の模様を省略したり、同じ模様だけで装飾する傾向に変化します。洛東江と栄山江を中心とする南部地域の櫛目文土器は中西部地域に比べて口は広く高さが低く、床も丸い形に近い反乱型(半卵形)をしているのが特徴です。文様も最初は中西部地域と同様にボウルを三つの部分に分けて、それぞれ異なる模様を規則的に配列したが、徐々に口を中心に3モナ菱形の家門(集線文)や組子模様(格子文)で満たし、胴の下には、文様は省略されます。中西部地域と似ているが、ボウルの形は、口が広く文様は深く太い線を利用し、以前の重ね柄土器で多く見えていた家紋が多く見られる特徴があります。一方、豆満江を中心に東海岸中部一帯を含む東北地域と、鴨緑江を中心とする西北地域の櫛目文土器は、他の地域に比べて底が平らな形をしているのが特徴であり、ボウルの種類や模様の構成ており、違いを見せています。このように、櫛目文土器は、地域的に他の特徴を見えるが、共通して、時間の経過に応じて土器表をいっぱい満たした規則的な幾何学的文様が簡略化して不規則に変わり紀元前1500年頃、青銅器時代の模様のない無地陶器に徐々に変わります。
土器に見新石器人の生活様式と美的フォーム
ソウル江東区に位置する岩寺洞遺跡は、釜山東三洞遺跡と一緒に韓国の新石器文化の流れを示す重要な遺跡です。ウルチュクニョン(乙丑年)大洪水で知られている1925年の豪雨に遺跡の一部が破壊され、遺物が露出されて知られている後、1967年にソウル大学博物館をはじめとする大学連合発掘団が発掘調査を実施しました。そして1971年から国立中央博物館で年次的に調査が行われた新石器時代の代表的な村の遺跡です。調査の結果、多くの家の跡地が確認され櫛目文土器をはじめとする多くの遺物が出土しました。特にここから出土した土器は、新石器時代の櫛目文土器のルール成果ジョンヒョンミを最もよく示しています。また、土器前面を三つの部分に分けて柄を施した定型的なものが大半を占めており、比較的早い時期に形成された遺跡と判断されています。
この櫛目文土器は、ソウル岩寺洞遺跡5号住居跡から出土したもので、5号家の跡地は、放射性炭素年代測定の結果4,610±200 B.P.で明らかになりました。この土器は、国立中央博物館プレゼント、ゴゴグァン導入部に展示されているだけに、韓国の新石器時代を代表する完成度の高い土器とすることができます。土器の形は簡潔V字型をしており高める38.1cm、イプジルムは26.6cmです。口の部分には、短い斜線は、その下に点を利用した菱形模様を押して撮っ装飾しました。胴部分には線を引いてセモと菱形家門で満たし、その下に組子模様と魚の骨の柄を順番に配置しました。底部分にも魚の骨模様を刻んだように見えるが消されてはっきりしていません。単純な点と線を利用して、三角、菱形、組子、魚の骨など、様々な幾何学的な柄をあしらっています。それぞれの柄が一定の形態と大きさを成して美しく配置されているが、新石器人の優れた空間構成力と美的感覚を端的に示しています。櫛目文土器に見られる幾何学的な文様は、具体的な研究が行われていなかったので、その意味を明確に知ることができないが、自然の中で生活していた新石器人の世界観を抽象的に表現したものとされます。たまに土器に小さな穴があいていることがあります。岩寺洞5号住居跡から出土した土器も下の部分に3つの穴が確認されるが、この穴は、土器を修理した跡と推定されています。土を火に焼いて、ある程度硬くなったが、金属や釉薬陶器に比べて使用する過程で亀裂が生じるなど破損する可能性が多かったようです。亀裂を中心に両側に小さな穴をあけ、これ以上破損しないように穴と穴の間を紐で縛って使用したものと見ています。新石器時代には土器を焼くことがそれほど困難な作業だったので修理をしたことがあります。しかし、周辺で簡単に入手できる土で作った土器が破損されてもすぐに捨てずに修理して再び使おうとした新石器時代の人々の生活の知恵と自然を大切にした心が伝わるようです。 櫛目文土器は、食品の保存や運搬、調理のように実生活で使用するための目的のために作られたものです。しかし、様々な文様を介して新石器時代の人々の美的感覚を垣間見ることができるだけでなく、土器を通じた生活様式の変化、さらには土器の使用に関する人々の小さな行為も、私たちに詳しく話してくれています。

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