飛騨高山や白川郷は魅力がいっぱい。内装が意外と豪華なことにびっくりした。財源は火薬だった。

はじめに

明日から3連休だ。普通なら旅行の計画でも立てるところだ。どこに行きたいかと聞かれれば、飛騨高山にまた旅行したいと思う。名古屋に単身赴任しているときに2度ほど立ち寄った。飛騨高山駅からは、バスでいける。神田家、長瀬家、明善寺庫裡郷土館を中心にじっくりと観光した。その中で合掌造りの巧みさを再認識した。今回は、そのような合掌造りの構造と特徴と課題について考えてみたい。

合掌造りの構造

周辺の水路

雪の白川郷を訪問すると、家屋の周辺に配置された水路が素晴らしい。その役割は一つではない。合掌造りは燃えやすいので防火が重要だが、水路はその大きな水源となる。また、田植えの時期には田んぼに水を供給する水路だ。日常的には生活用水でもある。そして、冬場になると屋根から下ろした雪を溶かして流す水路として活躍する。白川郷というと合掌造りが代名詞だが、それを裏から支えている水路にも注目すべきではないだろうか。

大黒柱と根曲りの木

合掌造りを支える技術が幾つかある。まずその柔構造だ。木材と木材を繋ぐのに釘は使わない。飛騨の大工の巧みの技を使っている。また、縄が非常に効果的に使われている。合掌造りを作る第一弾は1階部分の建造だ。ここまでは普通の平屋の建造と大差はないかもしれない。しかし、屋根に積もる雪の荷重に耐える必要がある。仮に20mx10mx1mの雪が積もり、雪の比重を0.5g/cm3とすると100トンにも達する。これを支えるのが家屋を東西に渡す根曲りの木だ。根曲りの木とは雪の荷重によって木がまっすぐ上に伸びずに谷側に伸び、そのあと上に向く木だ。雪の荷重に耐えたため非常に強度がある。そしてその木をおおよそ3m間隔で東西に配置する。しかし、家屋に使うには左右(東西)で対称である必要がある。そこで使われるのが飛騨の匠の技だ。2つの根曲がりの木を接合して、一本の木のようにして使っている。

ウスバリと柔構造

1階の土台の上に立つのが三角形の構造だ。合掌造りでは3階建てや4階建ても珍しくない。それを実現するのが三角形の枠組みだ。そして、この三角形の枠組みを3m間隔で配置する。三角形の枠組みは1階の土台ができたらその上で構築していき、それらができたら縄をつけて、人力で引っ張る。そして、この三角形と1階の土台である根曲がりの木は固定されていない。下の図の右下のように縦に伸びる木の先端を鋭く削る。そして、根曲がりの木にはそれを支えるくぼみを作る。楔(くさび)で固定されているが、基本は柔構造だ。そして、雪が溜まって大きな荷重がかかる時と、雪が落とされて荷重が減少する時の歪みをこの柔構造が吸収している。この技術はスカイツリーなど最新の建築技術にも活用されている。

茅葺(かやぶき)の役割

大きな合掌造りを建造する場合に、かやぶきの吹き替えは地域住民が協力して一気に行うようだ。下の写真はかやぶきの吹き替え工事中の家屋があったので撮影したものだ。これを見るとかやぶきを束にしたものを横にまず積み重ねている。かやぶき途中と最後には縦で積み重ねて使い、雨水の流れを良くしている。合掌造りは三角形の構造体を並べたものなので、これがドミノ倒しになることが一番困る。木造で斜めの強度も高めているが、かやぶき屋根がそれを固定する役割を担っているのではないだろうか。

合掌造りの特徴

地域の結束

現在はわからないが江戸時代においては、近隣の山は地域の住民のものであり、木材が必要になったら住民が相談して、住民が伐採して、住民が加工する。かやぶきの吹き替えも地域住民が結束して行う。白川郷では、そんな住民同士の結束を「結(ゆい)」と呼ぶ。そんな地域住民の結束の高さが、実は白川郷の最大の魅力なのではないかと感じた。
(出典:白川村役場)

雪に強い構造

合掌造りは必ず南北に建造する。つまり、西を向く面と東を向く面がある。これは午前中は東面の雪を溶かし、午後には西面の雪を溶かすという狙いがある。そして、45度から60度の大きな勾配角度で雪を落とす。さらに落ちた雪は水路で溶かして、水源に活用する。太陽の光も水路も自然のエネルギーを最大限に活用する先人の知恵の結晶だ。

(出典:Gifumatic

広い住空間と囲炉裏

家屋に入るとその広いスペース空間に驚く。また、意外と暖かいが、その熱源は囲炉裏のみだ。この囲炉裏はいつも薪をくべ、火が絶えない。明治時代も昭和の戦前まではこの囲炉裏で魚を焼き、鍋を温め、お湯を温めた。照明の役割もある。囲炉裏からの煙が防虫の役割を果たす。保温や防水の効果も高めるという。これは究極のエコハウスではないか。しかし、現代人から見ると課題もある。

合掌造りの課題

風に弱い

白川郷は周囲を山に囲まれている。しかし、それでも豪風雨のリスクはある。白川郷には台風は来ないが、台風が直撃するような地域には向かない。また、冬の北風をかわすために、北側と南側には薄い障子一枚というのが基本だ。これは北風からの圧力を逃すのが目的だ。逆に言えば、北側と南側に遮断性の高い壁を作ると、合掌造り自体が崩壊するリスクさえ想定されるように感じる。

火に弱い

合掌造りは火に弱い。打ち上げ花火がかやぶきに引火して火事になったこともあるという。白川村消防団では、2012年時点で156名の消防団員が頑張っている。しかし、その報酬は団長で5.3万円、団員だと1.5万円だ。白川郷には、65ミリ消化栓放水銃が荻町地区だけで59基ある。放水訓練の日程は明かされていないが、白川郷を守る生命線だ。タバコを吸う人も見かけなかったような気がする。

(出典:防災情報新聞

煙い

都会では焚き火は厳禁だ。火災の原因になるだけではなく、ダイオキシンが体に悪いという。しかし、本当だろうか。江戸時代から囲炉裏で生活している白川郷の人は元気だし、長寿だ。ただ、合掌造りの家屋に入ると正直煙い。昔、自宅が五右衛門風呂で、その風呂焚きが小学生ときの担当だった。そして、やはり煙い。煙さには慣れなかった。健康に影響があるかどうかは別にして、やはりこの煙いのは課題だろう。

まとめ

白川郷の合掌造りの魅力は絶大だ。当時は海外からの観光客が大勢来ていた。白川郷からは富士山や名古屋、金沢などに移動するバスがあり、これらも海外からの観光客には便利なのかもしれない。そして、そんな合掌造りは外見の素晴らしさに加えて、内部構造もすごい。また、それが過去の遺跡ではなく、現在もそこで生活している白川郷の人々によって支えらられていると言う点が素晴らしい。課題も欠点もあるが、それを上回る魅力と機能が合掌造りにある。そんな技術を現在の仕組みに活用することが、我々技術士に求められていることなのかもしれない。

以上

産後まで読んでいただきありがとうございます。本論ではないが、ちょっとダークな面も含め、余談を付記したい。

余談

合掌家屋は火薬工場

飛騨白川郷における神田家は、江戸時代に石川県の宮大工によって10年の歳月をかけて建造された本格的な合掌造りだ。しかし、靴を脱いで、合掌造りの家屋に入って、入場料300円を払って、最初に目に映ったのは、壁に掲示されていた古い新聞記事だ。「合掌家屋は火薬工場」というショッキングなタイトルだ(詳細は下の図を参照)。これをよく読むと岐阜大学の馬路教授の調査結果をまとめたものだ。白川郷の農家の軒下から火薬原料の焰硝(えんしょう)が発見したという。

(出典:神田家に掲示されていた新聞、2003年3月20日)

火薬と日本女性

かつて鉄砲が伝来した時には、わずか1年の間にポルトガルの部隊が日本に来航したらすでに日本人はポルトガルから購入した鉄砲を分解して、メードインジャパンの火縄銃ができていてびっくりしたようだ。しかし、当時の日本人には火薬を作る技術がなかったので、火薬は専ら輸入に頼ったようだ。一説には、火薬1樽を日本女性50人との交換したような話もある。戦国武将は競って鉄砲を作り、火薬を調達しようとした結果、50万人の悲劇とも言われるような悲しい歴史があったようだ。
(出典:るいネット

豊臣秀吉がバテレンを追放した理由

1587年に豊臣秀吉はバテレン追放令を出している。キリスト教の禁止は江戸時代だが、バテレン追放令とは、キリスト教の神父(ポルトガル語では神父をpadreという)を追放するものだ。では、なぜ追放したのか。それは、当時の南蛮諸国の常套手段として、まずは優秀な宣教師を送り込み、キリスト教を布教し、信者を増やし、そのあと、内乱を起こして、植民地化するという狙いを知ったからだという。確かし、そのような手口でポルトガルやスペイン、イギリスはアジアや南米を次々と植民地化している。現在では宗教の自由は担保されるべきものだが、当時はキリスト教を容認すると、日本国の統治に大きな問題が生じると判断したためだという。でも、教科書ではそんな説明をしない。
(出典:バテレン追放令

江戸時代には、さらに鎖国を実施

江戸時代の1612年にはキリスト教を禁止し、さらに1639年には、長崎の出島のみオランダとの交流を許し、それ以外の外国との交流を制限した。しかし、なぜオランダのみが鎖国の対象から外れたのだろうか。これはオランダのみが布教活動をしないと約束したためとされている。しかし、その背景として、三浦按針の存在は欠かせないだろう。
(出典:鎖国

徳川家康と三浦按針

三浦按針ことウイリアム・アダムスは航海士としてオランダのロッテルダムから極東に向かう航海に参加した。しかし、途中でスペイン船に妨害され、結局ウイリアム・アダムズが乗船するリーフデ号は漂流し、1600年4月に豊後臼杵の黒島に漂着した。長崎奉行からの通報に基づいて、時の権力者であった豊臣秀吉に対しては、オランダと敵対するイエズス会の面々は即刻処刑するように進言したが、五大老首座の徳川家康がオランダ船と乗務員の身柄を預かることになった。そして、皮肉にも、オランダ船に搭載されていた兵器は関ヶ原の戦いに活用され、勝利に貢献した。徳川家康は、ウイリアムアダムズ造船技術を高く評価して、250石取りの旗本にまで取り立てた。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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