読書シリーズ:シュメールの世界に生きて(S.N.クレーマー著)その2、ディルムンはどこだ。

はじめに

クレーマの著書はすごい!1ページ、1ページ、1行、1行に驚きの記述がある。神秘が神秘を呼ぶ。インダス文明を築いたのは誰なのか。縄文土器にも似た土器を作り、整然とした市街を設計して、1000年以上も安定的に繁栄した。そこで活躍した人々が恋焦がれる日出るところにあるディルムンとはどこのことなのだろう。

内容

賢者たち―シュメールの知恵文学

P179:シュメールの学校で教えられ学ばれたことの全ての基本となっていた学科は語学の勉強であった。
P181:数学は学校のカリキュラムの重要な一部分であった。基本的には60進数であり、位表記法を用いていた。成文化された法律は、シュメール人の生活に支配的な役割を果たした。
P183:シュメールの学校のカリキュラムで今一つの重要な学科は、農業と農場経営を扱うものである。
P184:医学もまたシュメールの学校の教科であった。
P185:1955年に少壮の科学史科マーティン・レビューと私は「イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ」誌に「人類史上最古の医学文献」と題する共著の論文を発表した。病人への施療の全てが薬と医療ではなかった。医学と呪いと宗教儀式の混じり合ったものを利用した。歴史もまたシュメールの学校ではおろそかにはされてはいなかった。
P186:メソポタミアの学校教育の家庭で最も魅力的な学科は文学の勉強だった。
P196:エドマント・ゴードンは1959年に「シュメールの諺・格言集、古代メソポタミアの日常生活」と題する不巧のモノグラフを大学博物館から出版した。
P198:約千個のシュメールの諺や格言のうち半分を翻訳しただけで、ゴードンは1961年にペンシルヴェニア大学博物館を去り、シュメールの知恵文学の分野からも退いた。
P201:文明の歴史上に初めて現れた事象を知りたいという世界共通の欲求を満たすシュメールに始まった「最初のこと」に関する25篇の小論を書き上げた。

ベストセラーの誕生

P202:第二次世界大戦後、考古学や古代史関連の書物の出版にまさしくブームが到来した。
P208;続く数週間はシュメール人の為した「最初のこと」に関する原稿の仕上げに没頭した。序論はシュメールの文学的な諸記録の正確、領域、復元についての概説にあて、本論は人間の歴史における「最初のこと」を確証ごとに一つずつ論じて25章になった。
P209:人類史上最初のゴマスリ、政治や政治体制や戦争、人類諸所の神経戦、最初の二院制議会、史上初めての内戦、歴史を記録に残そうとする試み、減税、最初の法典、最初の裁判記録、紀元前二千年ごろに書き込まれた薬の処方箋、最初の農事暦、最初の宇宙生成論と宇宙論、文学的対話と争論史などなどの分野に関するものだった。
P210:本は1956年に出版された(著作目録A.10).本の初刷は3500部印刷され、第二冊は3000部印刷した。
P211:不発弾かと思われた私の著書「シュメールのタブレットから」は初版から20年経った今なお版を重ねている一大ベストセラーとなった。フランス語版では本の題名を「歴史はシュメールに始まる」とかえた。
P212:ヨーロッパのほぼ全ての国の出版社が一斉に出版権を求めて騒ぎ立てた。ドイツ語、イタリア語、デンマーク後、スウェーデン語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、ポーランド語、ルーマニア語、チェックご、アラブ後、ヘブライ語、日本語に訳された。中国語だけが翻訳の現れなかった唯一の主要言語である。

イェーナへの旅

P216:イェーナに行くための折衝は1954年3月に始めた。
P219:1955年3月17日の貴簡は文化省をへて当庁に回送されてきました。当方としては意義なし。
P241:10週間にわたるイェーナでの滞在中、大学関係の3つの公的式典に出席する機会があった。
p247:ヒルプレヒト・コレクションを研究する過程で役50枚の保存状態の良いタブレットを含めて、150枚のシュメール文学タブレットを確認できた。

交換教授―ロシア共和国で

P252:1957年10月20日モスクワに到着した。
P256:モスクワに3週間、ソ連邦位は6週間滞在した。モスクワでの私の講義には聴衆が大勢詰めかけ、熱心な反応を示した。プーシキン美術館で見つけた一枚の楔形文字のタブレットには、これまで知られていなかった種類のシュメール文字が書き込まれていた。
P257:おそらく紀元前1700年ごろにニップールで記録された粘土板だった。
P258:2作品とも導入部に序詩を伴う葬送の歌、つまり挽歌である。プーシキン美術館はタブレットの写真を提供してくれた。米国に帰国してからの1ねんはんはこの記録と翻訳と解釈に捧げられた。1960年にモスクワで第25回国際東洋学者会議が開催される直前に出版された。
P259:1934年、ストルーヴェ教授はソ連邦科学アカデミーのメンバーに選ばれた。
P263:1963年、ディアーコノフはシカゴ大学オリエント研究所の客員教授となった。1969年に彼は古代メソポタミアを編纂した。
P265:中央アジアのカスピ海とオクサス皮に挟まれた地域では、紀元前第4千年紀から紀元第一千年紀にかけての5000年に及ぶ人々の生活の跡や諸文化の遺物が発見されている。ずっと東のシベリアのアルタイ山脈地域では、一群の凍結した墳墓を掘り当てた。男女の遺体、戦車、馬と立派な馬飾り、木製の家具類、布製の壁掛けや敷物、無数の金属製の装飾品がほとんど無傷のまま2500年も保存し続けた。埋葬品はエルミタージュ美術館に運ばれた。
P268:今やロシアではユダヤ人は誰一人平和に安全に暮らすことはできなくなっている。
P269:テヘランに立ち寄りテヘラン大学で講義をした。そこから200マイル以上離れたビーストゥーンの岸壁に行った。ダリウス大王は、この壁面にマゴス僧出身の諜反人ガウマータへの勝利を記念する三ヶ国語併記の碑文を刻ませていた。この碑文こそ楔形文字の解読の発端になったものだ。

楽園を求めて

P270:今日でも多いなす神秘の古代文明が過去半世紀にわたってパキスタンとインドで発掘されてきた。その文明は紀元前2500年あるいはそれ以前から紀元前1500年までの1000年間にわたって栄え、西はパキスタンーイラン国境からヒマラヤ山脈の山嶺地帯、カンベイ湾に至るまで広がっていた。古代都市の遺跡は、ハラッパとモヘンジョ・ダーロの近くで発掘されている。インダス文明を生み出したのは農民や家畜飼育者、漁師や船乗り、職人や熟練工、商人や行政官であった。

(出典:モヘンジョダロの遺跡

P272:高度に中央集権化した政体を発達させていた。建築用の煉瓦は規格の寸法を持ち、標準化された度量衡システムが存在した。一定の文字体系を道、決まった音価をもつ約300個の象形文字から成っていた。高度に発達した古代の国の名前はまだわかっていない。インダス文字はただの一字もいまだに解読されていない。インダス河流域の人々がシュメール人と商業上の強い絆で結ばれていたことは立証済みの事実である。

(出典:インダス文字

P273:シュメール語文書に頻繁に登場し、シュメール神話で讃えられるかのディルムンことインダス河流域の国であろう。

ディルムンは時として「太陽の昇る場所」「生命に満ちた場所」と叙述されている。これはディルムンが、シュメール神話の一変種では、創世神話の舞台になっていることや、洪水伝説の主人公ジウスドラが神々から永遠の命を授かったとされる場所であることによる。ディルムンはエンキとニンフルサグの叙事詩でも、天地創造の場所として描かれている。シュメールの南風を司る女神ニンリル、シュルッパクの都市神スドゥも、ディルムンに住まいを持っている。ギルガメシュ叙事詩にも登場するディルムンは、エデンの園のモデルになった場所と推測する学者もいる(出典:ディルムン)。


(出典:ディルムン

P273:ハラッパとモヘンジョ・ダーロは互いに何百マイルも離れ愛知いるが、文化的に同一の文明の2つの中心都市である。
P275:大多数の人々が生活していた市街地は城塞の下方に広がり、町は格子状の形状で舗装されていない大通りが東西南北に走り、市街を代替同じ大きさのブロックに分けていた。
P276:ハラッパにもモヘンジョ・ダーロにもほぼ同じ間取り2部屋の小さな家が集まる。都市の至るところに住民に水を供給するために細心の注意を払って作られた煉瓦製の井戸が見つかった。インダス文明人の大半は、地中海人種に属する。つまり、痩せ型で背が高く、褐色がかった肌色、黒い髪、黒褐色の大きな目、筋の通った高い鼻の持ち主だった。南インドと中央インドの土着の諸部民族は、背が低く、肌色は黒く、ちじれた黒髪、幅広の低い鼻、突き出た肉厚の唇を持っている。インダス文明の経済的支柱は農業だった。小麦、大麦、棗椰子、胡麻、豌豆、さらに羊、山羊、豚、野牛、猫、犬、うま、駱駝、象なども家畜化されていた。
P277:石工、大工、法施k商人、上国化、土器職人、貿易商人などが活躍した。
P278:16という数字が比例単位になっている度量衡システムに統一されていた。インダス文明の時代推定はシュメールで発掘されたインダス文明の遺物に依存している。インダス文明を創始した人々の知的、精神的な生活は依然として謎である。2つの主要都市ハラッパとモヘンジョ・ダーロはその興隆から滅亡まで1000年近く継続てkに占有された。


(出典:インダス文明

P278:これまで発見されている数千個の記銘の印章から判断すると文字体系は約300の文字から成り立っていた。数字はアルファベットではなく、音節表音文字だった。つまり、各文字は単一の子音や母音ではなく、1つのシラブルを表示した。シュメール人の考えていた楽園の国ディルムンこそインダス文明の国ではないか。

(出典:インダス文明

P285:ジウスドゥラが移住した国の名前がディルムンであり、それがシュメールの東方の何処かにある。1914年にアルノー・ペーベルによって翻訳されたシュメールの大洪水の物語では、神々が大洪水を持って人類を滅ぼそうと決めたのち、神を深く敬うシュルッパクの王ジウスドゥラは、人間が頼みとする守護神エンキから、避けがたい死と破滅を免れるために、一艘の巨大な船を作るよう前もって警告された。ジウスドゥラは言われた通りにして大洪水から救われる。詩人はディルムン日出るところと形容している。
P288:ディルムンがシュメール人のいう、祝福された人々の住まう国の名前であることが明らかになった。
P290:紀元前2450年ごろラガシュに強力な王朝を築いたウル・ナンシェ王朝の記録の中にディルムンの船団が王に諸外国からの貢物として木材を運んできたというくだりがある。それより150年後、アッカド帝国のサルゴン大王ディルムン、マガン、メルッハの船が都のアガデに停泊するという記録を刻んだ。
P290:半世紀以上にわたってディルムンがどこかがわからない。バーレーンのことではなく、バーレーン島が位置するほど遠い南方ではない。これまで考えられたよりももっと東になる。

まとめ

シュメール文明を調べていたら、インダス文明が絡んできて、インダス文明を調べていたらディルムンの話になった。このディルムンは日の出るところにあり、神々の楽園で不死の運命を定められた人間が移住を許される場所だという。それは黄金のジパングではないのか。

以上

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考:その3
シンポジウム、総合、総括
旅路の教授
終わりを彼方に見て

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