古代の神秘の宝庫である古代の文書がなぜ偽書とされるのだろう。

はじめに

今日は偽書(ぎしょ)について調べたいと思った。勝者が書き上げるもの歴史であれば、もしかすると偽書とは敗者が残した史実なのかもしれないし、単なるフェイクニュースなのかもしれない。有名なものからそうでもないものまで多数ある。少しレビューしてみたい。また、以前古代文字について投稿したけど、今回も気せずして、神代文字が絡んできた。

著書1:異端 日本古代史書の謎

著者:田中勝也
出版:大和書房
要旨:

P232:契丹古伝(きったんこでん)は10世紀初頭(916年)建国された契丹国の大官・那律羽之によって撰録されたとされる。契丹族は4世紀以来、内蒙古シラムレン河の畔にいたモンゴル系の遊牧民で契丹国は満州及び内蒙古を併せた北方帝国を成した。

P233:契丹古田は日祖という神格、つまり太陽である祖神の孫にあたる日孫が、鶏に載って、地上に下り、はじて神人の国を開くところから、その伝説を語り始める。

P233:神祖は、東方の国、少なくとも、中国東部から、満州・朝鮮にかけての領域、つまり環東シナ海圏を想定した領域の伝説的始祖観念である。

P233:神祖の後裔として、神子、神孫がいるが、これからさらに分族が生まれ、東方諸国に散らばって、分拠したという。その後、周が興って、殷を滅し、これに伴い、東方の統一は崩れたが、武伯と智准という2つの勢力が自立して殷の一族を迎えて国を保った。

P242:契丹古田が伝える、この日祖・日孫伝説については、日本の天孫伝説との関連を無視することができない。

P246:日本古語において日のことを「カ」とか「ケ」と言った。神は「カミ」といった。古伝はカガミ東野は、日神の名であると言っているのである。

P95:秀真伝(ほつまつたえ)、三輪神社の祖先らによって神武或いは景行天皇の代に編纂されたものと伝えられる。

P96:秀真伝は序章及び本編40章からなる。第1章から28章まではクシミカタマによって神武天皇の時代に、29章から40章まではオオタタネコによって景行天皇の時代に撰録された。

P96:クシミカタマはオオアナムチ、またはオオモノヌシの別名で、奈良県三輪神社に祭られている。全文、いわゆるホツマ文字という異体仮名で書き綴れている。


(出典:booth

P101:このように完璧なまでに「五・七・五・七・・・五・七・七」の定番を全うしている。

P199:竹内文書(たけうちもんじょ)

P200:この文書は太平洋戦争中「記紀」にあらわれている伝説的人格、武内宿禰の65代目の子孫で竹内赤池三郎衛門とう人物の要旨となった武内巨麿(おおまろ)によって公にされたもの。

P202:竹内文書において最も特異なのは、その神格体系である。

P205:失笑を禁じ得ないのが「五色阿支宇(アジア)」、「天夫利降(アフリカ)」、「黒人尾瀬阿児安(オセアニア)」である。アジア、アフリカ、大洋州、それに恵比須すなわち北海道以北のアイヌやツングース系諸族を一丸として、世界共和を成そうとう大東亜共栄圏の思想にあまりに忠実な表明と言える。

P17:上記(うえつふみ)

P18:上記は幕末、今の大分県大分市に住んでいた国学者・幸松葉枝尺(さちまつはえさか)によって発見された。いわゆる宗像本と大友本の2種類がある。

P18:宗像本・大友本とも、50文字の異体仮名で全編書かれている。

P24:女尊時代の投影。上記では必ず男女両神を一対として上げる。

P38:神武がはじめから万世一系の天皇として、皇位を約束冴えていたとする記紀伝説と異なり、いわば戦争と政治の力学の偶然が生んだ英雄として神武(サヌ)を描いている。

P38:上記は四季の名を2通りあげているが、共に、現在のハル・ナツ・アキ・フユの語源と思われるものである。

P39:上記は、人間の肉体と精神を形づける原理をイケ、ホケ、ミケ、ツケの4つとする。

著書2:偽史と寄書が描くトンデモ日本史

P14:竹内文書(たけうちもんじょ)

P14:3200億年前野天皇即位を記した真の歴史書

P16:超古代の天皇たちは「天浮船(あめのうきふね)」と呼ばれる乗り物で世界を巡航して各地に文明を築いた。モーゼは石川県にある宝達山(ほうだつさん)で神道を学び、彼によってユダヤの秘宝は日本に持たされたという。

P24:上記(うえつふみ)、古事記を凌駕する神代文字で記された神vs鬼の物語。

P24:上記は古事記とほぼ同じ書き出しだ。類似点は多いものの、ニニギノミコトが天照大神の命を受けて地上に降臨(天孫降臨)した後の行動やオオクニヌシの出雲王朝などについてはより詳しく描写されている。

P24:上記の特徴は、使用されている文字が豊国文字という神代文字であること、暦は太陰暦ではなく太陽暦が用いら得ることなどがあげられる。


(出典:booth

P28:秀真伝(ほつまつたえ)

P28:東北・仙台に存在していた神代の都

P28:漢字到来依頼古代大和で使用されていた「ヲシテ(ほつま)文字」と呼ばれる神代文字を使い、五七調で綴られた。


(出典:日本ヲシテ研究所

P30:ホツマツタエとは、「まことの中のまことの言い伝え」の意味となる。

P44:天照大神本地(てんしょうだいじんほんじ)

P44:天照大神本地の冒頭にある記述で、天照大神の本地は大日如来であり、その本縁は天竺(インド)にある波羅奈国(ばらなこく)の乾闥婆王(けんだっぱおう)だということが記されている。

P48:契丹古伝(きったんこでん)

P48:東アジアのルーツは一つとする北方民族の史書

P48:四世紀から内モンゴル・シラムレン側の近辺で生活していたモンゴル系遊牧民「契丹族」。彼らが建てた国を契丹国と言い、その領土は満州から内外モンゴルまで及んだ。そんな契丹族の歴史書が「契丹古伝」だ。

P48:契丹古伝では、日本や朝鮮、満州、蒙古にいたる東アジアのルーツを「東大族(とうたいぞく)」としている。

P48:東大族とは、漢民族以前の先住民であり、中国の伝説王朝「夏(か)」や実在が確実視される「殷(いん)」の皇帝と言われれている三皇五帝も東大族の出身だと書かれている。

P48:東大族の始祖は日祖アメシフウルカメは清らかな波しぶきのなかで禊をして、日祖アメミシウクシフスサダミコを産んだと書かれている。

P48:東大族と敵対していたとされるオロチ族をスサナミコが討伐したという、まるで「八岐大蛇退治」を彷彿させる記述もある。

P49:東大族は中国全土に広がり分拠していたが、西方から侵入してきた漢民族の祖先が殷を滅し「周王朝」を建てる。その際、東大族で西に逃れたものは「匈奴(きょうど)」となり、東に逃れたものは朝鮮や日本にたどり着いたとする。

P52:東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)

P52:東北の津軽地方に別の王朝が存在したとする歴史書が存在する。それが、青森県五所川原市の和田家に伝わったとされる古文書「和田家文書(わだけもんじょ)」であり、その中心となるのが「東日流外三郡誌」である。

P53:古代、津軽にはアソベ族と呼ばれる穏和な人々が住んでいた。彼らは農耕を知らず、狩猟や採集で平和な生活を送り、アソベ山という火山を聖域としていた。

P53:だが中国大陸からツボケ族という荒々しい民族がトライし、アソベ族を山地に追いやる。やがてアソベ族は征服され、アソベ山の噴火もあり、滅びてしまった。

P53:その頃、大和を中心とする近畿地方にはツモミケ族のアビ彦と弟のナガスネ彦が周辺のクニを統一して耶馬台国(邪馬台国ではない)を築いていた。この耶馬台国に侵攻したのが九州の日向国だった。日向国を率いていたのが後の神武天皇で、ナガスネ彦は重傷を負い、アビ彦も敗退し、津軽に逃げ延びたという。

P53:その後、アビ彦とナガスネ彦は津軽にとどまり、アソベ族の残党とツボケ族、そして大陸や朝鮮半島から東北に渡ってきた部族と連合し、アラハバキ族を結成する。アラハバキとは、もともと神の名前で、東北地方を中心に出土する「遮光土器偶」は彼らの御神体とされる。

まとめ

正義は厄介だ。あるものにとっての正義と別のものの正義が違っていたりする。戦争はある意味、正義と正義のぶつかり合いかもしれない。何が正しいのかではなく、何がある人たちにとって都合が良いのか、もしくは都合が悪いのか。前者を正史と言い、後者を偽書とするのではないかと感じた。また、取り上げた古伝は神代文字で書かれているものもあり、日本には漢字が伝来するまでは文字がなかったというのも違和感を感じる。漢字文明の人が理解できる文字がなかっただけなのではないか。そもそも古来からの文字文化があったから、漢字が伝来した時に、それを融合し、吸収することができたのだと思う。

以上

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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