縄文展では説明されない縄文人のミステリー、鬼界カルデラから逃避した縄文人はどこに向かったのか。

はじめに

縄文時代はロマンの宝庫だ。まだまだ縄文時代については不明な点が多い。2018年7月3日から9月2日まで東京国立博物館で縄文展が開催されたときに、見学に行った。非常に素晴らしい展示だったけど、そこに展示されていないことや触れていないことが気になったので、思いつくままに記載してみたい。

縄文土器の迫力と芸術性

大阪万博で太陽の塔をデザインした岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と発言したことは有名だが、岡本太郎は縄文土器に深く感銘を受けていた。岡本太郎ほどの芸術センスはないが、素人の自分が見ても、縄文土器には爆発力を感じる。非常に完成度も高いし、繊細だし、ミステリーだ。
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出展:国立博物館

縄文土器の魅力

特にミステリーなのが、火焔型土器だろう。展示されている縄文土器はケースに入っていて手で触ることができないが、博物館の出口には実際に手に触れるレプリカが展示されている。実際に手にとるとその精巧な作りに感動する。ノスタルジーを感じる要素が満載だ。
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縄文土器と縄目文土器

今回の展示には、日本の縄文土器だけでなく、アジアやインド、中東の古い時代の土器も展示されていた。しかし、あまり迫力を感じない。中国の土器はどちらかという弥生土器に似た感じだ。以前も一度アップしたが、紀元前2900年から2400年頃には、縄目文土器文化(Corded Ware culture)がヨーロッパに広がった。日本語のwikiに掲載されている写真は縄文土器との類似性が低いが、英語版のWikiに掲載されている写真は、下の写真だが、縄文土器そのものに見える。
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出典:Corded Ware culture

縄文人とY染色体

男性の染色体はXYで女性の染色体はXXだ。なので、このY染色体を調べると父系の系統がわかる。これをY染色体ハプログループと呼んでいる。D1bは日本人固有であり、アイヌ人や沖縄人に多い。非常に古い系統で縄文人の遺伝子と言われる。中国などの東アジアのY遺伝子にはD1bはなく、O1bやO2という別の流れだ。O1bやO2は日本人にも一定数いる。つまり、これから言えることは、縄文人が日本の先住民族であり、そこにあるタイミングで大陸から民族が流入して、混血としての日本人ができたということだ。日本人固有のD1bというY染色体と同じ系統のD1aはチベットなどで見つかっているという。インカ帝国の先住民やアメリカ大陸の先住民であるインディアン、アラスカの先住民なども同じ系統ではないかと言う説もあるようだが、染色体の研究が進めば事実が明らかになるのだろう。
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出典:Y染色体ハプログループ

縄文時代に文字がないのは本当か

今回の縄文展においても、「縄文時代には文字がなかった」とパネルで断言していた。定説ではそうかもしれないが、何かがないことの証明は難しく悪魔の証明とも言われる。文字がなかったことにしたいという意思を感じるというのは言い過ぎだろうか。以前、沖縄とインカに加えてアイヌ民族でも縄算が使われてたことを先日投稿した。沖縄の縄算はいわば5進数だ。インカの縄算は沖縄の縄算とほぼ同じだが色も情報として活用したらしい。古代マヤ文明は20進数ですでにゼロの概念があったという。縄算だけではなく、日本には多くの古代文字があったという説がある。それが事実かどうかが確認されるのも時間の問題だろう。

縄文土器は東日本からの出土が多い

今回の縄文土器は出土エリアが明示されている。東北や北海道、中部、北陸が多い。四国や中国、九州は少ないと言うか、ほとんどない。それがなぜかを説明していないが、その理由は紀元前5300年頃に現在の鹿児島沖で起きた「鬼界カルデラの噴火」だ。下の図にあるように火山灰が四国から関西まで降り注ぎ、西日本の人口が激減しただけでなく、約千年間は人が住める状況でなかったので、火山灰の下から出土される土器と上から出土される土器が全く異なると言う。
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出典:鬼界カルデラの噴火

縄文時代にも稲作はあった

縄文時代には稲作はなく、弥生人が稲作文化を大陸から運んで来たと教科書等で習った気がする。しかし、縄文時代にも稲作はしていた。正確に言えば、弥生人が持って来たのは大規模な水田を作る技術だ。水田を作るには、ため池を作り、水路を作り、水田に水をためる必要がある。そして、それによって稲作の生産性は飛躍的に高まった。

温暖化と寒冷化

1万年以上も継続した縄文時代をイメージする上で、もう一つ大切なことは温度の変化だ。下の図は、地理学者の阪口豊氏が、尾瀬の泥炭層の花粉から古気候の復元を試みたものだ。これを見ると、紀元前7000年ごろの縄文早期には寒冷期から縄文早期温暖期を迎えている。紀元前5000年には寒冷化したが、紀元前4000年には縄文前期温暖期を向えた。紀元前3000年には寒冷期に進むが、紀元前2000年には縄文後期温暖期を迎えている。紀元前1000年ごろから寒冷期に進むが、紀元前600-700年ごろから弥生温暖期を迎えている。紀元前660年は神武天皇が日本を設立した時期で、いわゆる皇紀元年だ。その後も急速に寒冷期に突入したのち、平安時期には温暖期を迎えている。このように周期的に寒冷期と温暖期を繰り返し、温暖期の時期に一気に新しい文化や体制が拡充されている気がする。
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出典:hi-ho(周期的な気候変動)

縄文人と平和

今回の展示会で展示されていなかったのは、兵器に関するものだ。精巧に作られた釣り針は展示されていたし、矢じりもあった。しかし、それはあくまで狩猟のための道具であり、人と人が闘うためのものは発掘されていない。つまり、そんな争いがない平和な時代が縄文時代だったと言うことだ。平和な時代でなければ、あれほど精巧でかつ大胆で精緻な土器を作ることはできないと言う気がする。

縄文人とシュメール人

鬼界カルデラの大噴火」のことは先に書いたが、この大噴火で九州地区の住民は生き残りをかけて必死に避難したはずだ。紀元前5000年から4000年の頃にメソポタミアに突如現れたシュメール人は井戸をほり、灌漑の技術を持ち農業が盛んになり、人口も増大した。本格的な文字に至ったのも紀元前4000年から3000年の頃だ。紀元前2900年から2400年にヨーロッパで縄文文化と酷似の縄目文文化が広がったのも、もしかすると関係があるのかもしれない。1分が60秒、1時間が60分という現代の時間管理の仕組みは、シュメール人によるものだと言われている。さらに、シュメール人は音楽が好きだったようで、シュメールの賛美歌である「ヒュルリアン賛美歌第6番」は、音楽的に記録された世界最古の曲とされている(出典)。シュメール人による支配は紀元前2004年にバビロニア人が支配するまで続いた。日本から避難した縄文人の末裔が現地と多少同化しながらも、故郷である日本を目指して戻ってきたと言うケースもあったのではないだろうか。日本史と世界史をリンクさせて考えるとまた新しい史実も明らかになるかもしれない。

邪馬台国は九州か関西か

ところで、邪馬台国はどこにあったのだろう。でも、不思議だったのは、なぜ九州と関西なのか。中国や朝鮮から弥生人が九州に上陸した後、東に向かったのは想像できるが、今の広島とか、出雲とか、香川とかではなく、なぜ奈良だったのか。ミステリーは深まるばかりだ。
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出典:blog

まとめ

縄文展に多くの方が訪問して、縄文文化に興味を持う人が増えるのは嬉しい。でも、縄文展であっても、説明されることと説明されないことがある。縄文時代を知ることは日本のルーツを正しく理解することだ。別に弥生人が悪いわけではない。現代の日本人は縄文人と弥生人の混血といっていいだろう。他の先住民族のように縄文人が駆逐されず生き残ったことは奇跡的なことかもしれない。縄文人の遺伝子が現代人にどの程度残っているかは、多分地域差があるだろう。東北地方や南九州、沖縄は高いだろうし、北九州や関西は低いかもしれない。そんな研究結果が今後でてくるのだろうか。古代へのミステリー探求の道はまだまだこれからだ。

以上

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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