読書シリーズ:オリエントの遺跡、名著の精読は時間がかかる(汗)。

はじめに

今回はシュメール文明の謎に近づこうと、3冊の本を取り寄せて精読した。いずれも内容が濃く、読破するのが大変だったけど、興味深い内容も多かった。その一部について備忘メモ的になってしまったけど、それぞれ引用しやすいようにページ数別にまとめておいた。少し内容が散漫になったのはご容赦頂きたい。

著書1:オリエントの遺跡

出版:東京大学出版会
著者:投稿大学イラン・イラク遺跡調査団
要旨:

(オリエント古代文明の流れ)

P1:アシュール期末期から中期旧石器時代初期にかけては、温暖にして乾燥した気候に変わっていった。ルヴァロアあるいはルヴォロア・ムスティエ初期の文化を残している。中期旧石器時代も広範囲入ると寒冷な雨期になった。ムスティエあるいはルヴォロア・ムスティエ後期の分化が栄えた。ホモ・サピエンスの文化である後期旧石器時代のオーリニャック文化は西アジアに起こったとする考え方が有力である。

P2:中石器時代。北半球において最後のヴォルム氷河が北方に後退し始めるとともに、各地に自然環境の変化が起きた。この変化に対して人類は新しい適応の仕方を示した。細石器を主体とする文化遺跡からはしか、ハイエナ、野猪、熊などの野生動物に加えて、犬ややぎの骨が見つかっている。紀元前1万年の頃には人間と動物の共存関係が始まった

新石器時代:紀元前7000年ごろ西アジアの一部では定住的農耕村落が成立した。しかし、この食糧生産手段がいつ、どこで、どのような事情の元で発見されたかは不明だ。パレスチナからイランにかけての肥沃な三日月地帯は、古代文明の怒った肥沃な三日月地帯より少しく北によっている。

ジャルモ期:紀元前6,500年ごろのジャルモ(Jarmo)遺跡が肥沃な三日月地帯の初期農耕民の遺跡の代表だ。上下の地層に2つの文化がある。下層は無土器農耕民の文化と考えられるが、大麦、小麦を栽培し、山羊、羊、豚、牛を家畜としていた。鎌、石臼、石杵などの農具や、女性像を持つ。練土の居住が存在する。

P3:ハッスーナ期。紀元前6000年紀には、肥沃な三日月地域の各所に、土器や織物をもった農耕民の文化が成立した。初めはごく粗末な無文土器を主体とし、定住的家屋を持たなかったり、竪穴を利用していたが、やがて練土の家屋へと飛躍の跡が認められた。紀元前6000年紀も半ばを過ぎると彩文や刻文で飾られた土器を持つ農耕民が特色ある文化を生み出した。

ハラフ期:紀元前5000年期に近づく頃には肥沃な三日月地域に大きな変化が起こった。一つは北メソポタミア、シリアを中心に一様性を持つハラフ文化が栄えた。もう一つは南メソポタミアの低地が開発され始めた。

ウバイド期:紀元前5000年期には南北メソポタミアを中心にウバイド文化が広がった。南メソポタミアでは、灌漑農耕が始まり、日乾レンガが使用された。鋳銅技術も進化した。

P4:ウルク期。原文字期と呼ばれるウルク期後半からジェムデット・ナスル期にかけては都市の前段階にあたる町の成立を見た。初期の絵文字が初召されたのもこの頃とされる。紀元前3000年紀の初頭にはキシュ、ウル、ウルクなどのシュメール人の都市がまず南メソポタミアに成立した。シュメール人の起源については様座な意見がある。

P5:初期王朝時代。紀元前2250年ごろサルゴンがアッカド国を建てるまでの間を初期王朝時代と読んでいる。神権政体と呼ぶべき社会が意図なわれていた。宮殿に使える神巻が政治、宗教の中心だった。当時メソポタミアに成立した都市国家は極めて多かった。古バビロニアの王名表によると、大洪水のあと、王権が再び天に下って、サルゴンの出現した。


(出典:日本の古本屋

著書2:我が歴史研究の70年

著者;三笠宮崇仁
出版:学生社
要旨:

(まえがき)

P6:「未来の義務を考えることが刻々の義務を果たすことである。」真杉静枝さんに渡されたマーテルリンクの「霊智と運命」より。

P7:歴史は螺旋状に推移すると考えるようになった。AAAは繰り返し的現象である。

(サクラと日本人)

P20:日本人が愛して膨大な詩歌に詠み込んできたのは美しい花を咲かせる桜であった。欧米人が話題にしてきたのは実を食べる種類の桜でありました。

P21:数千年前には鳥獣の狩猟、漁労、植物の採取でくらし、そのうちアジア大陸からイネを携えた農民が日本列島にやってきた。それを契機に日本は稲作農作を基盤として飛躍的に発程してきた。

P23:桜は「サ」と「クラ」に分かれます。サには、早いとか、新鮮なという意味とイネという意味がありました。クラは、座る場所とかものを置く場所を意味します。つまり、いねをしまっておく場所を稲蔵と呼び、サとクラを繋いだサクラは稲魂のいる場所、つまり、稲の神様のいらっしゃる場所となります。このため、早苗は田植えに用いる若い稲、早乙女は早苗を植える少女、皐月は田植えが行われる月(旧暦では4月)などがあります。

P39:最も古い文学的資料としては、人類最古の文明の担い手であったシュメルじんが粘土板に書き残した「洪水物語」がある。人類や動物の創造、最初の5都市の建設などが記されたあと、ある神が王兼神宮ジウスドゥラを大洪水から救う決心をする。その結果、ジウルドゥラは七日七夜の大洪水を巨船の中で生き延び、ウトゥ(太陽)が再び昇った時に、彼は牛と羊を犠牲として神々に捧げたとある。

P53:大正初期の古代オリエント研究は貧弱だった。1917年(大正6年)7月21日にバビロン学会が創立された。

P56:1923年(大正12年)の関東大震災の際に学会の蔵書が焼けてしまった。機関紙のバビロンも第4号で終わりを告げた。1920年ごろに私(三笠宮殿下)が東大でヘブライ語を習ったのは大畠清先生。その大畠先生の先生が石橋智信先生。杉勇先生は、シュメル語、アッカドご、エジプト語からヒッタイト語まで精通されていた。

P57:中原興茂九郎先生は、「シュメルのみことである」とか、「たかまがはらがバビロニアにあった」とか俗説が横行したので、シュメールと長く引っ張るようにされた。私はシュメルと書くことにしている。

P58:日本オリエント学会が設立されたのが1954年(昭和29年)。当時の会員は64名。今では700人。

P69:エジプトの古代宗教と日本のそれとはよく似ていると言われる。しかし、乾燥の国と湿潤の国との間では死後の世界観において本質的な相違を生じている。

P79:1947年に今日のイスラエル国とヨルダン王国の境に横たわる死海の西北岸の崖の洞窟からユダヤの古文書「死海文書」が発見された。周辺の11の洞窟からも数万の羊皮紙とパピルスの巻物や断片、廃墟、墓地群が見つかった。紀元前2世から紀元後1世紀の時代のものだった。

P82:キルベト・クムランの発掘。100年ほど前にここを通り罹ったフランスの旅行者は火で滅ぼされたゴモラの町の廃墟だといった。今では、キルベト・クムランとと呼ばれている。

P85:建物の内部、出土した貨幣、土器、麻布、鉄製農具からドウ・ヴォー神父が得た結論だ。製粉所、パン焼場、陶器工場などの作業所が発見された。

P86:クムラン宗団に加入したものは、彼自身はもとより、一才の才能も持ち物も完全に集団に提供しなければならいない。

P87:キルベルト・クムランには、いつくかの水槽と水道施設が完備していたのもこの洗浄の概念を裏付ける。

P92:クムラン集団の人々は厳しい戒律生活の中に終末的メシアが来るまで集団に伝わる。

(聖対称図鑑)

P96:聖対称図鑑はメソポタミアで最古の都市文明を発展させたシュメル人の図案に用いられるようになった。

P97:紀元前5000年ごろにはメソポタミアで洗練された彩文土器が作られている。


(出典:彩文土器

P100:バビロン第一王朝の滅亡後、カッシュ人(カッシート)が500年あまり南部メソポタミアを支配した。一方、セム語族のアッシリア人は北部メソポタミアに王国を確立していた。

P101:ナツメヤシノ栄養分が多く、乾燥すれば保存できる。その幹は30メートルほどに成長する。毎年の洪水に対して被害が少なく、塩分の多い土壌に対する抵抗力もある。ナツメヤシの分布が多い地域とシュメル文明の発達した範囲はほとんど一致していた。

P108:シュメルで創出された「聖対称図像」は歴史の推移とともに、東に、西に、伝搬し、さまざまな民族に採用された。日本では「聖対称図像」は宗教的・儀礼的用途の一部にのみ採用され、日常生活にはもっぱらひ対照的図案が用いられている。

P113:シュメル人は今からおよそ5000年も昔のこと、バビロニアの南部、ティグリス川、ユーフラテス川の河口地方の沼沢地に住み着き、濃厚社会を建設し、人類最古の文明を発展させて民族である。バビロニア南部地方に侵入する直前にはその東北方にあたるイラン高原の西部山地帯にいたのではないかと言われている。これが正しいなら、聖書の部分は「人々は東から移ってきて」と訳するのが正しいかもしれない。

(古代オリエント思想研究ノート)

P138:1869年にフランスのJules Oppertが古文書から「シュメル」という名称を初めて発見した。専門学者の間では、The Sumerian Problemとして今なお議論が続いている。

P371:創世記のエリーシャーの特徴は、ヤーワーンの子であること、タルシシ、キティーム、ドーダーニームとともに兄弟となっていること。


(出典:アマゾン

著書3:起源、古代オリエント文明、西欧近代生活の背景

著者:ウィリアム・w・ハロー
訳者:西田明子
出版:青灯社
要旨:

P53:計数が文字に先行していた。その計数は粘土製のトークンというものを使って行われた。そのトークンは早くも紀元前9000年頃にはオリエント全域で出現した。つまり、新石器革命である。紀元前4千年紀末ごろには紐でトークンを繋ぐとか、その紐の先端をブッラとよばれる粘土塊で包む。あるいは、トークンを丸くて中空の円球内部に封入した。

P73:書記を示す標準シュメル語の表語文字「ドゥブ・サル」はアッカド語に入ってトゥプシャルと読まれる。ドゥブは粘土、サルは植えるの意味だ。なぜかドゥブ・サルとトウブシャルの両方が使われるケースがあった。これが謎だ。

P168:古代オリエントのサイコロと盤上遊具は全て聖王の遊具の先祖ということができる。しかし、簡単な独楽の伝搬経路が西欧から近東へ逆方向に向かっている1種の独楽がある。それはティトゥタム(小さな独楽)と呼ばれるもので、各面に頭文字が掘り込んである小円盤で、中心を貫いている辛抱を指で摘んで回し、それが倒れた時に1番上に出た文字がその遊戯社の運命を決定する。


(出典:twitter

P169:現在はラテン語のT(全部)、A(取れ)、D(賭けろ)、N(無し)だった。近年では英語のT(全部取れ)、H(半分取れ)、N(無し)、P(もう一度賭け金を積め)などとなっている。ユダヤ人社会で宮浄め祭(ハヌカ)の時に子供たちが幸運を願って遊ぶ遊具のドレイデルの祖先と思われる。


(出典:アマゾン

P176:メソポタミア人は、ギリシャ人などよりずっと以前から時計類を知っていた。シュメール語では(ギシュ・)ディブディブ、(ギシュ・)リッダ、マルタクトゥと呼ばれていた。古代メソポタミアの重量単位はマナ(ma-na)であり、1マナは約500g。水時計はギリシャ人はクレプシドラと呼んでいた。

P177:昼夜平分時つまり均一時間のことをシュメル語ではダンナ(danna)と呼び、アッカド語ではベールと呼んだ。それは2時間単位で12単位集まって1日24時間となる。(→ これは日本の古い時間の呼び方と一緒だ。でも細かなここの時刻のシュメル語での読み方までは不明。)


(出典:SqureSpace

P178:詰まるところバビロニアの60進法の計算によって、1時間が60分に分割され、1分が60秒に分割された。円周もも360度に分割されたという。しかし、これには異論もある。ブーアスティンは円周を360度に分割したのは古代エジプトからの1年から引き出されたものと主張している。また、日本は1873年まで日の出から日の入りまでを6時間とする太陽時刻を採用していたので、日本人の時間は日々長さが違っていたと主張している。(→ 本当?)


(出典:アマゾン)

まとめ

三笠宮崇仁親王の著書の行間を読むと面白い。シュメル文明というと「シュメルの命である」とか、「たかまがはらがバビロニアにあった」とか俗説が横行するので、中原興茂九郎先生シュメールと長く引っ張るようにされた。しかし、私(三笠宮崇仁親王)はシュメルと書くことにしていると貫いている。これはつまり、シュメールではなく、シュメルと書くべきという主張ではないか。つまり、あえて俗説と書いているけど、それが俗説ではない可能性を示唆しているように感じる。考えすぎだろうか。また、三笠宮崇仁が「我が歴史研究の70年」の冒頭でサクラについて記述していた。内容は興味深いがやや違和感があった。後で知ったのですが、現リトアニアの日本領事杉原千畝によって救われたハシド派のユダヤ人1,000人から2,000人は紅口(現在の上海)にユダヤ人ナッミンのための「ハイメ」と呼ばれる寮形式の住居に定住するようになった。これを支援したのが上海ヘブライ救済協会や、上海欧州ユダヤ人難民救済委員会だが、1943年には日本が出資する上海アシュケナージ協商救済会が結成されこれを支援している。この救済会の名称が(SACRA)である(出典)。日本はユダヤの味方であることをサクラの話題を通じて伝えたかったのではないだろうかとふと感じた。

以上

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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