温泉その1:温泉の起源は縄文時代。神道や仏教の文化が日本の風呂・温泉の歴史を作る。

はじめに

今回は温泉をキーワードとして3回にわたって投稿したい。その1として温泉の起源や日本におけるお風呂や温泉の歴史などを概観する。その2では世界の温泉の歴史を紐解く。その3では、地熱エネルギーを活用した発電システムの課題と展望にと話をつなぎたい。

その1:温泉の起源、日本の風呂・温泉の歴史(⇨ 今回)
その2:世界の温泉の歴史(明日
その3:地熱エネルギーを活用した発電(明後日)

日本人は清潔好きでお風呂大好き

日本人は清潔好きだ。お風呂も毎日入るのが普通だ。情報発信サイト「ココミル」が2009年に実施した調査では、男性の79.1%、女性の88.5%はほぼ毎日お風呂に入るとある(出典)。海外はどうかと調べてみたら、フランスで髪を洗う頻度についての調査結果があった。これによると下図に示すように男性は毎日洗うが29%と最も多いが、週に1回も17%ある。女性は週に2-3回が41%と最も多い。フランスでは乾燥していて汗もそれほどかかないのでシャワーで身体を洗う人が63%だ。お風呂は6%と少ない。その他の手段が31%と多いが詳細は不明だ。どういう意味だろう(笑)。日本人が大好きなお風呂の歴史を紐解くと温泉に行き着く。だって、日本では天然の温泉が数千あると言われている。そんな温泉の起源を日本と海外を比較しながら紐解いてみたい。

(出典:mousouadvisor)

温泉は生命の起源か

お風呂や温泉の起源を調べていたら、温泉はもしかすると生命の起源かもしれないという記述があった。つまり、生命には有機化合物の合成が必要であり、温泉は生命の起源に適した環境という説だ。例えば、北アメリカ大陸最大の火山地帯であるイエローストーン国立公園は今も数百箇所から熱水が噴出している。最古の噴火口は1,800万年前のものだ。この地区の調査をした結果、次のようなレポート(意訳したもの)を引用する。少し難解だが、興味深い。

イエローストーン国立公園の温泉における微生物の生物学的性質の研究が、好熱性生態系の化石記録を解釈する上で重要な意味を持つことからも明らかである。熱水プロセス(Hydrothermal processes)は、惑星の形成と進化に密接に関係していると考えられており、太陽系の他の天体にも存在していた可能性がある。このような環境は、生命の独立した地球外起源を維持していた可能性がある。そのため,熱水系とその堆積物は,太陽系外に存在する生命の証拠となる化石を探すための主要なターゲットとなる(出典:Semantic Scholar)。

なお、この地域と人との関わり合いは1万2千年前にまで遡る。地域内の大峡谷周辺の鉄分を含む黄色い石から、現地のインディアンからは「Mitzi-a-dazi(黄色い石のある川)」と呼ばれていた。黄色は硫黄分の色ではなく、熱水作用によって変色した鉄分の色だという。また、このイエローストーン地区では黒曜石が産出される。この地区一帯で狩猟していたインディアン達は、この黒曜石を石鏃やナイフとして活用した。黒曜石については、「人口、通貨、海進、言語などから紐解く縄文人の祖先や起源の謎。」でも投稿したが、日本人の起源を探る上でも重要なアイテムの一つだ。

イエローストーン国立公園(出典:Semantic Scholar)

日本の風呂・温泉の起源と歴史

縄文時代やそれ以前に人々はどのようにして生活していたのだろうい。神道の風習では沐浴を行い、仏教伝来とともに湯堂(蒸し風呂)が整備された。

神道の風習・沐浴(もくよく)/禊(みそぎ)

日本では神道の習慣から川や滝で沐浴を行った。これは一種の禊である。沐浴を行う宗教上の意義は次の3つだ。
1) 沐浴により、俗から清へ、生から死へなどへの移行を促進する。
2) 川、海、泉など、聖なる場所に身体を置きけがれを取り除く。
3) 沐浴により、聖なる物に触れる前や空間に入る前に、身体的・宗教的なけがれを落とすこと(出典)。

三千年の歴史を持つ道後温泉

道後温泉は、日本国内でもひときわ古い3000年もの歴史を持つといわれる温泉である。道後温泉にある小高い冠山からは、約3000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく)が出土する。伊予国風土記では大国主命が重病の少彦名命を助けようと、大分の速見の温泉を引き湯あみさせるとよみがえり、立ち上がった少彦名命が踏んだ石に足跡が残ったという伝承がある。西暦596年(法興6年)には伊予の温泉を訪れた聖徳太子の記録がある。日本書紀では、伊予の温泉について、舒明天皇の行幸(巡行の意味、639年)や斉明天皇の行幸(661年)などの記事があリ、道後温泉は日本最古級の歴史を持つ。

(出典:道後温泉有馬温泉白浜温泉

仏教伝来後

6世紀に渡来した仏教は、聖徳太子の導入政策に基づいて、急速に日本に広がった。仏教では、汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事と考え、寺院では僧侶が集まり修行をする七堂伽藍(しちどうがらん)の1つとして浴堂を整備した。奈良の東大寺や法華寺には今も浴堂が残っている。当時の家には浴室がなく、町湯もなかった。当時の都では天然痘が流行っていたので、光明皇后は疫病を鎮めて国家鎮護を仏に祈りました。仏のお告げで、奈良の法華寺に浴堂をつくり、光明皇后は千人の民衆の垢を流されたという。当時の浴堂では、薬草を入れたお湯を沸かし、その蒸気を取り込む蒸し風呂だった。仏教では、お風呂に入ることは「七病を除き、七福が得られる」と説かれていた。なお、浴堂は後の平安時代に京都で登場する銭湯につながる。

法華寺の浴堂(出典:東京銭湯

平安時代:蒸し風呂様式の浴堂

平安時代には、公家が屋敷内に浴堂を取り入れるようになる。枕草子には石を使った蒸し風呂の様子が描かれている(出典)。

 塩風呂等に入ると同しく、その所にてたつるやうと聞きしに、小屋あって、其の中に石を多く置き、之を焚きて水を注ぎて湯気を立て、その上に竹の簀を設けてこれに入るよしなり、大方村村にあるなり

この時代になるとそれぞれの村に浴堂が整備され、村人がありがたやと使ったということなのかもしれない。また、塩風呂とは、現代では、お湯に塩を入れたお風呂を意味するが、平安の時代にあっては、塩分濃度の高い温泉のことではないか。日本温泉法では、泉温が25℃未満もしくは、鉱水1kg中に溶け込んでいる成分の総量が1g以上あれば温泉だ。

塩風呂(出典:志楽トピックス

世界最古の温泉宿:西山温泉「慶雲館」

藤原京の時代の西暦705年(慶雲2年)に開湯したのが、今の山梨県南巨摩郡早川町の西山温泉慶雲館だ。甲斐の山懐に包まれた秘湯として、多くの都人、名将、文人に愛されてきた。2011年には「ギネスワールドレコーズ」で「世界で最も古い歴史を持ち今も営業する温泉宿」として認定された。世界一古い企業は金剛組であることは以前投稿したが、世界一古い宿がこの慶雲館だ。日本書紀では、和暦の元号は、西暦645年7月17日の大化に始まり、白雉となり、文武天皇の慶雲は5番目の元号だ。藤原鎌足の長子で学僧として渡唐した藤原真人が慶雲2年に発掘、開湯した。

慶雲館(出典:慶雲館

鎌倉時代:鉄湯船

鎌倉初期の浄土宗の僧、重源上人は東大寺の復興に尽力し、大湯屋を整備した。重源は1133年(長承2年)に醍醐寺で出家し、密教を学び、高野山に登り、法然に就いて浄土教を研究した。下の写真は、東大寺の施浴に用いられた鉄湯船だ。

東大寺の大湯屋の鉄湯船(出典:産経新聞

豊臣秀吉の時代の五右衛門風呂

先の鉄湯船は、長州風呂の元祖と言われている。これと似ているのが五右衛門風呂だ。五右衛門風呂の方は桶で囲まれているが、長州風呂は鋳鉄製の風呂釜だ(下図参照)。五右衛門風呂は釜ゆでの刑にされた豊臣秀吉時代の大盗賊・石川五右衛門が名前の由来とされる。自分の生家の風呂は五右衛門風呂と思っていたけど、正確には長州風呂だったと今気づく。長州風呂は、明治時代中期、広島の鋳物職人が「芸州風呂」「広島風呂」として売り出したが、佐幕側だった広島の名前は評判が悪かったので、「長州風呂」にしたという。

五右衛門風呂と長州風呂(出典:キッチンバス工業会

江戸時代:行水&蒸し風呂

江戸時代になると戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場した。桶の下部に鉄や銅で作った筒形の焚き口と通風孔を設け,煙突を上部に出して,木炭や薪を燃やして湯を沸かす鉄砲風呂だ。江戸時代も後半になると,温湯浴の湯槽に使える結桶(ゆいおけ)が量産され、自家風呂である据(すえ)風呂が普及した。慶長年間の終わり頃には、すえ風呂、または水(すい)風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場した。呼ばれる浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルは、桶に水を入れて体を洗う行水スタイルと、蒸し風呂が融合したのだろうか。浴槽による入浴方法は江戸時代に入ってから一般化したと考えられる。


戸棚風呂(出典:Japaaan)

江戸時代の湯屋の進化

江戸時代の江戸では火事が大敵だ。また、水も貴重だったが、埃っぽいので、湯屋(今の銭湯)でさっぱりとしたい。江戸時代初期には、先述の戸棚風呂が普及した。小さめの湯船で膝より下を浸し、上半身は蒸気浴するものだ。その後、湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)を設けた風呂が登場した。中は暗く、細工を施した石榴口によって中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗く、薬草をたいて蒸気を浴びた。次第に湯に浸かる湯浴みスタイルへと変化していった。男女で浴槽を分けることはなかったが、脱衣所は別だった。また、時間によって区切る例もあったようだ。浴衣のような湯浴み着を着て入浴する工夫もあった。しかし、盗難や風紀を乱すような状況も発生し、1791年(寛政3年)には「男女入込禁止令」が発令され、また、天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかったようだ。当時の銭湯は、現在でいう午前8時から午後8時頃まで営業した。銭湯は庶民や下級武士の社交の場でもあり、男性は2階の座席で落語を楽しんだ。1809年(文化6年)から1813年(文化10年)にかけて式亭三馬は、4編9冊の浮世風呂を書いた。当時の庶民の生活をが活き活きと描かれている。当時の銭湯の入り口には、矢をつがえた弓などが掲げられれた。「弓射る」と「湯入る」をかけた洒落だ。


江戸時代の湯屋(出典:Japaaan)

減る銭湯・増える温浴施設

江戸時代の社交の場だった湯屋は現在の銭湯につながるが、その銭湯の減少が止まらないが、これは国民の各家庭にお風呂が装備されるようになったことが背景にある。最近では日帰りでも楽しめる温浴施設なども増えている。

(出典:アクトパス

手水舎:身も心も清める

日本人は清潔好きだがこれも理由がある。神社の境内に入るときには、手水舎(てみずや)で参拝者の身と心を清める。これは神道におけるマナーだけど、その背景にはやはり古代の日本で流行した感染症に対する対処という意味もあったと思う。ここでは、手水の基本的な作法と注意点のポイントのみを記す。
 1.心を落ち着かせる
 2.右手で柄杓を持って左手を清める
 3.左手で柄杓を持って右手を清める
 4.右手で柄杓を持って口を清める
 5.両手で柄杓を持って持ち手部分を清める

手水舎(出典:クリアン

まとめ

日本人の綺麗好きはどこから来たのだろうか。縄文時代からの風習なのか、神道からの風習なのかはまだ分からないが、日本の風土と日本人の精神がうまく噛み合って平和で清潔な世の中が維持されてきたのだと思う。先祖への感謝を忘れずにいたい。次回(明日)は海外における温泉・風呂の流れを紐解きたい。

以上

最後まで読んでいただきありがとうございます。

参考:次回の予告

その2:世界の温泉の起源と歴史
・紀元前3,000年〜4,000年のエジプト
・古代ギリシャ:病気治療の温泉利用
・古代ローマ時代:ホテル&温泉の保養施設
・キリスト教は温泉施設を取り壊し、教会を建設
・ルネッサンス(15世紀?):温泉が復活
・産業革命後:大規模ホテル、皇族の温泉地滞在

その3:地熱エネルギーを活用した発電
・地熱発電
・バイナリー発電
・世界の地熱発電の7割を支える日本メーカー
・地中熱利用の仕組み
・地温勾配
・地下10mの温度は年中一定

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