「諜略は誠」をモットーに徹底的な精神教育を行なったのが中野学校の成功要因か。

はじめに

終戦の日にふとあるSNSから陸軍中野学校に興味を持った。そのために、久しぶりに東京大学の図書館サービスで関連図書を取り寄せた。残念ながらその多くは法学部の図書館で取り寄せ不可だったが、関連図書を何冊か取り寄せた。そのうちの1冊について拝読して感じたことや書かれていることをメモしておきたいと思う。法学部の図書館は基本平日なので、時間の取れる時に訪ねてみたい。

著書:陸軍中野学校
著者:畠山清行
出版:サンケイ新聞出版社
発行:昭和41年7月20日

暗号

P31 スパルタ式、乱行式について実例を示してみると、A図が「スパルタ式」である。向かって、左上のアから始まって、右へ横に書いたものを右から縦に打電する。濁音は同じ文字を二度書く。
⇨ これは暗号の歴史にも書かれていないほど初歩的な方式だ。

P50 フリーメーソンが、中世ヨーロッパに生まれた秘密結社であることはその名が示している。フリー(自由)なるメーソン(石工組合)だ。中世においては石工が最高の技術者だった。当時の最高の知識人の集まりだった秘密結社が連綿として今日まで生き続け、世界の隅々にまでねを張っている。
⇨ フリーメーソン式の暗号文字が描かれていた。参考に添付したい。

P69 我が国の軍隊には明治建軍以来、薩長の2大派閥があった。しかしこの2大派閥の対立も第一次世界大戦までで、ほとんで消え失せた。この頃から新しい派閥対立が生まれる。幼年学校出身者(Pコロ)対中学高出身者(Dコロ)間の感情的派閥対立、もう一つは陸大出身者の天保銭組と無天組の機能的派閥対立であった。
⇨ 当時の軍で陸海軍大学を卒業することは閣下を約束されることだという。Pコロにも尊敬に値する優れた人物も多いが、一方で参謀とは無暴、横暴、乱暴の三暴成人陰口をたかれたようだ。

P83 2.26事件が起こる8日前、正確に言えば、2月19日の午前10時であった。麹町竹平町の元フランス大使館後の麹町憲兵文隊特高課に三菱本社の秘書から電話がかかってきた。「歩兵第一連隊の栗原安秀中尉らが18日の夜に会合して、22-23日ごろに重臣襲撃決行を申し合わせた」という。
⇨ 当時の三井、三菱、住友などの大財閥は月額15万円ぐらいの情報費をばらまき、このような情報を掴んだ三菱の岩崎弥太郎は本郷から国分寺、さらに伊豆別荘に逃げている。また、これらの情報は海外の諜報機関にも渡っていた。これでは誠に国防が心許ないと、陸軍中野学校設立の原因の一つになったという。

日露戦争

P99 日露戦争の勝利が明石元二郎大佐の謀略工作の性能によることは明らかな事実だ。しかし、徳川幕府がお家安定のために作り上げた「武士道」観は平時における諜報活動を卑劣な概念としたことによる。遅まきながら参謀本部第2部第四班を独立の課に昇格する案がまとまったのが昭和12年の秋だった。
⇨ 翌昭和13年春に第4班は第8課となり、大使館の武官からの報告に加えて、独自に国際情勢の判断、宣伝、謀略の3部門を扱うことになった。また、参謀本部だけでは不十分という声が上がり始め、対ソ諜報の第一人者である秋草俊中佐が熱心に主張して、陸軍省兵務局に「防衛課」が新設された。

P123 スパイといえば、暗い陰のある人物と卑怯な行為を連想る日本とは正反対で、英国では諜報活動を名誉な働きと考えていたから、勇気と才能に恵まれた軍人は自ら進んでこの道を選ぶ。

P129 明治38年6月、米国大統領ルーズベルトの勧告で日露両国は講和することになった。ロシア側の元蔵相のウイッテが首席全権で、日本側は外務大臣の小村寿太郎が全権となっていた。負けた側のロシアは「賠償金は1ルーブルも出せない。樺太も半分ぐらいなら差し上げても良いが、それ以上はごめんだ。もし、不服ならもう1戦を辞さない」と強気。小村は9月1日に涙を飲んで休戦議定書に調印した。その日に宿に帰ったウイッテが「勝った勝った、ついに勝ったぞ」と小躍りして喜んだことは有名な話だ。
⇨ 簡単な暗号で大阪朝日新聞がこれを特ダネとしてすっぱ抜き、9月13日に戒厳命が叱れるまで9日間も騒動が続き、官民の死傷者1029名、死者13名(全て民間)に至った。また、日露講和会議に負けたはずのロシアが一歩も引かない強硬な態度に出た理由は、日本政府が同盟を結んでいる英国に条件の最大限度と最小限度を電報で送り、その電報を大北電信が大株主であるロシア皇帝に伝わっていた。同様に、大正10年のワシントン軍縮会議でも暗号を解読されて破られている。

P139 数千あるいは数万の諜報員を敵地にばら撒くドイツの人間戦術に対して、英国の諜報機関は単独で潜入する忍者的諜報に優れている。同様に中国もまた、古くから秘密結社の発達した国であり、忍者的諜報では、高月事件もその一例だが、これとともに有名なのが南京大使館毒殺事件だ。

秘密戦士

P142 秘密戦士の養成機関である「情報勤務要員養成場設立準備委員事務所」が陸軍省兵務局内にできたのは昭和12年の歳末であった。岩畔豪雄中佐、秋草俊中佐、福本亀治中佐が設立準備委員に任命された。

P145 軍人勅諭や典範令で軍人精神を叩き込まれた士官学校出身の将校に複雑多岐な諜報活動が務まるはずがない。思い切って社会人常識豊かな半地方人の予備士官学校で教育した幹部候補生から集めるべきとなった。この判断が成功したのはのちの中野学校の卒業生の活躍を見てもわかる。しかし、図らずもこの陸軍としての画期的な処置が学徒動員のテストケースとなった。

P148 試験では、社会、経済、地理、天文、恋愛問題と硬軟とりまぜ各委員が矢継ぎ早に質問を浴びせた。デタラメを言って知ったかぶりをするかどうかを試したり、堅い話から柔らかい話と一人に1時間半も時間をかけて質問した。第1期の後方勤務要因として選考を受けたものは37-38名で、斎藤と決まったのは28名、1年間の教育を終えて14年春に卒業したものは18名である。

P149 70-80名を採用することになってからの3期、4期生ですら、総体旗手までした方どの秀才であった防衛庁の伊藤一佐をして舌を巻くほどだった。その観察力、記憶力はまるで神業だった。

P150 新米少尉にとっては金筋に星章の輝いた将校の軍服が魅力だったが、その新調の晴れ姿を誇る間も無くその薄汚れた建物へと連れ込まれて「本日から、一切軍服をきてはならぬ」と申し渡されて、誰もひどく情けない顔をしていた。

P151 一期生は単独で各国に潜入、一般市民として定住しながら諜報勤務につかせることを目的に訓練された。つまり、1箇所に定住し、いどころの変わらざる武官、それが軍の狙いだった。
⇨ この学校には一旦戸籍を抹殺されたように言われているが、そのような事実はない。ただ、学校を終えて勤務に着く場合、必要に応じてそうしたものもあるが、ごく少数である。

P154 集めたのが、全国えり抜きの秀才である。自由勝手気儘に行動させておいて、その自由に溺れ自己を見失うようではものの役に立つはずもない。地位も名誉も金もいらない。国と国民のために、捨て石となる覚悟だけを持たせるように指導して、あとは彼らの自由に任せた。
⇨ 徹底的な自由を与え、彼らの近くに待ったところに養成所、つまり陸軍中野学校の成功の鍵があった。

P159 ベトコンは中共のゲリラ戦術を学んでいるが、ゲリラの教官にはインドネシアの連中もいて、焼夷、爆破、撹乱、擬装、流言、無電傍受、電話盗聴まで教えている。ベトナムでは、中野学校で習った弟子がゲリラの教官隣、米軍と戦っている。

P162 徳川幕府の伊賀者や甲賀者利用の御庭番を調べていくうちに、忍法は中国に始まって我が国に渡来したもので、湖北省黄陂(こうひ)の袁(えん)氏一族が祖であることもわかった。

落花流水

P163 明石元二郎は福岡藩士助九郎の次男として福岡天神町で生まれた。13歳で陸軍幼年学校に入り、19歳で士官学校を卒え、歩兵第12連隊の少佐となり22歳で戸山学校の歩兵戦術、体操、射撃の共感となる。翌年陸軍大学に入って25歳で卒業している。明治27年にはドイツへ留学、34年にはフランス行使館付き武漢となる。
⇨ 明石はフランス公使時代にモナコに遊んで30分ほどルーレットを見学しているうちに、高等数学で次にいくつの数字が出るという計算を割り出した。賭博場では悲鳴をあげて、見学は差し支えないが、賭けることはご遠慮くださいとなった。高等数学で解いたのは明石とのちの山本五十六元帥の2名のみだ。

P173 明石の工作の根本はもちろん日本が競争に勝つためであったが、同時にあまりにも過酷なロシアの専制政治に人間としての激しい怒りを覚え、正義感に燃えてもいたのである。
⇨ 中野学校出身者が南方の諸地域の工作で「白人の膝下にある彼ら民族を解放し、独立させることこそ、同じアジア民族の勤めである」と真剣に考えていたのと軌を一にしている。

P195 昭和12年の春医学博士石井四郎中佐の研究室が牛込若松町にできた。この兵務局分室は満州ハルビンの南方、平房に移って、満731部隊となったのは昭和13年7月だ。この部隊では伝染性細菌によって家畜を全滅する病原体や人間を殺害するペスト、コレラ、腸チフス、パラチフスなどの菌、薬物、毒ガスなどの研究を行っていた。

P205 開校初期の中野学校と昭和20年1月頃の中野学校。

諜略は誠

P207 中野では「諜略は誠」をモットーに徹底的な精神教育をした。殺人は秘密戦士にとっては下の下だと教えられた。

P215 陸軍中の学校の編成

P262 日本には現在、スパイ学校が3つある。自衛隊の調査学校と、米軍の朝霞キャンプ内にあるアジア人専門の特殊学校、共産系のゲリラ養成学校だ。政府機関の何々問題研究所や、政界、財界人がバックアップする調査室。あるいは各国が本国内のスパイ学校卒業生を訓練のために送り込んでいるものもある。秘密戦の戦場は日本であるが、それにもかかわらず日本人は全く無関心である。

P262 国際問題を論じる場合、武力戦を語る人は多いが、その裏の知力戦まで考える人は少ない。武力戦は氷山の一角であり、それまでに至る長い秘密戦は武力戦の終わった途端に始まる。

P263 日本人は国民精神の中心を失っている。かつての天皇を蜘蛛の上から引きずり下ろしたが、それに代わるべきものを示していない。精神的中心さえ失った国民に健全な生活のあるはずもなく、青少年の不良化も、壮年層の無気力化も、遠因はこの辺にあるのではないかと筆者は考える。

まとめ

フィリピンのルバング島から、小野田少尉が日本に帰国したのが1974年3月12日だった。第日本帝国軍人として29年もの間フィリピンで戦っていたことを知った時は本当に驚いた。当時はまだ高専の1年生だった。なぜそれほど長く戦えたのかが疑問だったけど、中野学校の存在や教育を知り、謎が解けたように感じた。中野学校のモットーは、「諜略は誠」だという。欧米諸国の植民地とされていたアジア諸国を開放させることがアジアの安定と成長を促し、持って日本の繁栄につながるという考え方だ。この考え方を甘いと断じる人たちも旧日本軍には多かったようだ。今のアジアは、植民地が解放され、独立して、経済的にも繁栄を実現している。ただ、その結果として日本が繁栄するという構図はあまりうまくいっていない気がするが、それは求めすぎだろうか。日本の問題は、この筆者が指摘するようにかつては国民精神の中心が天皇だったが、今はそれがなく、精神が揺らいでいるように思う。個人的には、天皇崇拝というよりは、建国前の縄文時代、そして建国からの日本の歩みを理解し、日本人がどのような精神を大切にしてきたかということを国民精神の中心にすべきだと思う。その意味では実語教の教えなどもぜひ見直すべきだと思う。

以上

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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