読書シリーズ:西アジアと東アジアの交流が新たな文明を生み出したのだろうか。

はじめに

昨日は東大の総合図書館でアジアの東西の交流や日本への渡来などをキーワードにした図書を読み漁った。なかなかうまくまとめきれないけど、麦と稲、羊と豚などの対比は秀逸な着眼点だと思う。羊は漢字文化にも反映している。美、洋、義、着、羞、群、羨など数多い。羊だけで論じるのは尚早だけど、漢字を考えたのは実は西アジアの人が東アジアに移動して文化の交流の末編み出されたものという可能性はないのだろうか。東アジアの韓国や中国よりも、西アジアのキリギスやウイグルに、言葉や顔や性格など日本との共通点が多かったりするのも不思議だ。

著書1:ムギとヒツジの考古学

著者:藤井純夫
出版:同成社
要旨:

P313:ムギとヒツジは紀元前8000年〜6000年頃の西アジアで成立し、そこから東アジアに向かって東漸(とうぜん)し始めた。これと同じ頃イネとブタは長江の中・下流に起源し、そこから北上または南下、西漸し始めた。両者は北東と南西の2箇所でクロスし始めた。北東とは、つまり紀元前2〜1千年紀の極東アジアである。

P314:南側ルートを東漸するムギとヒツジが、南下・西漸するイネとブタに初めて出会ったのが、紀元前3千年紀後半から2千年紀のインダス河流域であったと考えられる。

著書2:大和政権とフミヒト制

著者:加藤謙吉
発行:吉川弘文館
要旨:

P414:本書では日本の古代国家形成期の行政機構を支えた実務担当者で、古代文化発展の担い手でもあったフミヒトと呼ばれる渡来系の集団の足跡を追おうとした。

P414:1995年に発足した「あたらしい古代史の会」には篠川賢氏のおすすめで参加し、以来時間の許す限りずっと出席している。

著書3:古代日本の王権空間

著者:千田稔
発行:吉川弘文館
要旨:

P2:日本という国は、人類文明の谷底のようなところで、あらゆる文明がここに流れ込んでくるが、ここから独自な文明がよそに流れ出したということを聞かないという。

⇨ 聞かないというという表現が秀逸。古代の時代には、長江、インダス、ユーフラテスといった文明の地に古代縄文の文明が流出したのではないか(仮説)。

P3:古代日本人の考えを突き詰めて行くと、私の申すところのまれ人というのは、始終海からきているのです。・・海岸地方では海から来る信仰が熱かったのです。伝説などを見ても、海から神が来なければ、まとまりのつかない話が多いのです(春来る鬼)。

P4:古代日本の海洋民は海人と呼ばれ、航海や漁労に従事した海部という集団を海部氏が統率し、連・直・臣・首・公といった姓を持った。

著書4:交響する古代、東アジアの中の日本

著者:石川日出志、日向一雅、吉村武彦
出版:東京堂出版
要旨:

P5:人類が文明時代に入ることは農業の開始と発展がその前提となる。

P6:黄河中流地域でこれまでに知られた最も古い刻画記号は、海南省舞陽の買湖遺跡から出土した8000年前の亀の甲羅に刻まれた記号である。

P8:黄河中流地域の6500年以前から5500年以前ごろまでは仰韶文化の時期であるが、この時期の先史文化は彩色土器にその特徴が最も表れている。

仰韶文化(ぎょうしょうぶんか、ヤンシャオぶんか)は、中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化である。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前2700年あたりである。仰韶村遺跡はスウェーデン人のユハン・アンデショーンによって1921年に洛陽の澗河上流の河南省黽池県仰韶村で発見された(出典:wiki)。

P10:長江下流地域では5300年前以降から4300年前頃にかけて、良渚文化が分布していた。

⇨ 良渚文化(りょうしょぶんか)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。1936年、浙江省杭州市の良渚遺跡で発掘された。崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東龍山文化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土した良渚遺跡は、初期の都市文明を伝えることが評価され、2019年に「良渚古城遺跡」の名で世界遺産に登録された(出典:wiki)。

P21:日本の古代木簡は1913年に初めて発見され、その後1928年(三重県多度町柚井遺跡)と1930年(秋田県払田柵遺跡)でも少量の木簡が発見された。

P21:日本で発見された木簡の年代は主に7〜8世紀に集中している。

P27:もう一つの類型は半島南部の百済と新羅の故地から出土した6世紀以降の木簡である。雁鴨池から出土した木簡は7〜8世紀のものである。

P49:縄文時代の舟に関する実物資料は全て一本を掘り抜いた丸木舟である。

P54:中期後半になると北部九州の三雲南小路遺跡などで前漢中枢から入手した文物多数を集中保有する墓地が現れる。近畿周へんでも盛んに鋳造された扁平銅鐸の減量は黄河中流域産であることがわかっている。

P121:中国王朝との関係が結ばれることは文字の交通の中に入るということに他ならない。

P122:1世紀が日本列島における文字の始まりと認められる。

著書5:渡来の古代史

著者:上田正昭
出版:角川選書
要旨:

P11:高野新笠が「百済武寧王(むりょんわん)の子純(淳)陀太子」の子孫であり(続日本紀)、我が国の皇統には百済王族の血脈が交わっていることを明記した。

P11:百済・伽耶系の漢人(あやひと)、新羅系の秦人(はたひと)がどのように登場して活躍し、高句麗系の高麗人(こまびと)もまた文明の導入に大きな役割を果たしたことを史実に基づいて叙述(じょじゅつ)した。

P44:左京諸番上の漢とする太秦宿禰(すくね)や秦忌寸(いみき)などは全て新羅系であり、武生(たけふ)宿禰・桜野首などは百済の王仁の子孫であって、百済系であった。

⇨ 宿(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)は、古代日本における称号の一つ。大和朝廷初期(3世紀 – 5世紀)では武人や行政官を表す称号[1]。主に物部氏、葛城氏、秦氏、蘇我氏などに宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された姓(カバネ)の一つとなる(wikiより)。

⇨ カバネには「姓」という漢字表記が当てられているが、この字は先秦時代の中国では血縁的氏族を指し、一方で「氏」字は領土的氏族を指すものであったが、漢代には両者が混同されるようになっており、日本に漢字が伝来した際こうした字義の混用も伝わった(wikiより)。

⇨ カバネがいつ頃、どのような理由で誕生したのかは厳密にはわかっていない。通説的には氏(ウヂ)の確立と共に6世紀半ば頃までには成立していたとされ、天皇(大王)から氏に、あるいは個人とその家族の単位に賜姓されるものであった。代表的な古代のカバネには臣(オミ)、君(キミ)、連(ムラジ)、直(アタヒ)、造(ミヤツコ)、首(オビト)などがある。684年(天武13年)に八色の姓(やくさのかばね)が制定され、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種に整理された(wikiより)。

メモ)三種の神器とは、身分証明証だったのではないか。

P49:日本書紀では、応神天皇14年是歳の条に、秦氏の祖とする「弓月君(ゆずきのきみ)百済より来帰としるし、人夫(たみ)120県を率いて帰化とのべる。

P49:右京諸番の秦忌寸の系譜に「太秦公宿禰と道祖、功満王三世の孫秦公酒(はたのきみのさけ)の後なり」とかの所伝にもみいだされる。

⇨ 功満王とは古代伝承上の渡来人。弓月君(ゆづきのきみ)の父。「新撰姓氏録」によれば、秦の始皇帝の子孫で仲哀天皇8年に渡来。太秦(うずまさ)氏、秦(はた)氏らの祖とされる。「日本三代実録」には応神天皇14年に渡来とある(出典:コトバンク)。

P75:倭漢直は東漢直ともかき、生駒・金剛山脈の東の大和(奈良)盆地南部に分布し、東漢氏の氏族の一つであった檜前忌寸(ひのくまのいみき)は奈良県飛鳥村の檜前に移住したことを明確に知ることのできる上申の文言である。

⇨ 東漢は,大和国高市郡を中心に勢力をひろげ,7世紀までに,坂上・書(ふみ)・民・池辺・荒田井など多くの直(あたい)姓氏族にわかれ,天武天皇の八色の姓(やくさのかばね)において忌寸(いみき)姓に改められ,8~9世紀には,坂上氏を中心に政界に地歩を占め,宿禰(すくね)・大宿禰を賜る氏もあらわれた。彼らは政界だけでなく,在地でも檜前忌寸(ひのくまのいみき)と総称され,檜前寺を氏寺とし,高市郡の郡司を歴任するなど勢力を保った。西漢は,河内国丹比・古市2郡を中心に,近接して居住し,文・武生・蔵の首(おびと)姓,船・白猪(しらい)・津の史(ふひと)姓などの各氏にわかれたが,東漢ほどの勢力はなく,八色の姓でも,忌寸をあたえられたのは文(書)首など少数にとどまった(出典:コトバンク)。

P161:中国では仏教の諸仏を仙人と称した例もある。1973年に調査された内モンゴル自治区和林格爾(ほりんごーる)県の後漢墓壁画では象にまたがった人物を前室壁頂部に「仙人騎白象」と墨書している。

⇨ 和林格爾(ホリンゴル)県の歴史は古く、秦代には雲中郡、後漢には定襄郡が設けられていた。386年に北魏の時代は都が置かれ盛楽と称されていた。現在でも盛楽経済区の西側には遺溝が残されている。その後も歴代王朝がここに県を設け、市内各所に遺跡を散見することが出来る(出典:wiki)。

⇨ 和林格爾(ホリンゴル)県を含む内モンゴル自治区は、50万年前から20万年前ごろの原人の化石が見つかっている。比較的湿潤で温暖なこの地域では牧畜と農耕を両立させる「半農半牧」が行われてきた。紀元前4700年から紀元前2900年にかけては紅山文化が燕山山脈の北方に栄え、紀元前20世紀ごろにはオルドス部人が住みつき始め、春秋戦国時代には趙・燕と匈奴との間で抗争が繰り広げられた(出典:wiki)。

まとめ

麦と羊が西アジアから東漸し、稲と豚が東アジアから西漸したという説は興味深い。民族はどちらか一方に向かうのはではなく双方に交流していたという考え方の方が自然だと思う。また、多くの文明が日本に流入した事実が強調されるが、日本からも世界中に文明が流出したと考えるのが自然だろう。人類がどのように地球を移動したかの研究はかなり進んでいるけど、氷河期での移動と温暖な時期での移動では世界が全く異なる。氷河期には海面が低下し、移動は可能だが寒さとの戦いなので、少しでも暖かい南方の海岸での移動が主だったのではないか。一方、温暖な時期には海面は上昇するので、海岸から高原に、南方から北方に民族が大移動したのではないか。寒冷化と温暖化は12万年周期で繰り返すことも判明している。過酷な気候変動を乗り越えて生き残った生物や人類は本当に凄いと思うし、危機に直面した時に著しい変化や進化が促されるのだろう。縄文人が西に逃れてシュメール人となり、祖国に向けて西アジアから東アジアに数千年の時をかけて移動したのではないかと以前投稿したが、さまざまな文献を調べると意を強くすることが多いし、多くのことを知らないことを思い知らされる。親日国とされるトルコやポーランド、キリギス、モンゴルなどの諸国を訪問すれば意外な事実が見つかるような気もする。会社勤務を終えて自由の身となったら、さまざまな国をゆっくりと放浪したいと思うけど、夢は叶うだろうか。

以上

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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