おでんの起源から豆腐、劉安、炎帝神農と遡ると見えてくるものがありそうだ。

はじめに

今回は、おでんの起源を調べてみたら、稲作漁労民の民を率いる長江文明の炎帝に行きついた。これはどういうことなのだろう。

おでんの起源

おでんが無性に食べたくなることがある。コンビニのおでんも美味しい。以前、旧友と訪れた渋谷円山町のおでん割烹ひではまだ営業しているのだろうか。拍子木形に切った豆腐に竹串を打って焼いた形が田植え時の豊穣祈願の楽舞「田楽舞」に似ていたため、「豆腐田楽」と呼ばれるようになったのがおでんの起源と言う。つまり。田楽がおでんがくになり、おでんになったと言うことか。
(出典:macaroni

田楽舞

平安時代から伝わる民間の舞踊で田植えのとき笛、太鼓を鳴らし歌い踊ったものが田楽舞という。近江国日吉権現では早くから田楽が行われていた記録がある。日吉大社は、滋賀県大津市坂本にある神社で日吉社(ひえしゃ)と呼ばれた。全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社であり、山王権現ともいう。日吉はかつては「ひえ」と読んだが、なぜか第二次世界大戦後は「ひよし」としている。
(出典:田楽舞

豆腐の起源

豆腐の起源については諸説あり、16世紀に李時珍によって編纂された『本草綱目』では、豆腐は紀元前2世紀前漢時代の淮南王で優れた学者でもあった劉安によって発明されたとしているが正確には劉安が方士に命じて不老不死の霊薬を作らせた時にできたもののようだ。以前、健康を食べる豆腐の読書メモで、次のように書いた。現代の淮南市には豆腐村があるが、劉安の著した淮南子には豆腐の文字は出ていない。豆腐の原料となる大豆は遅くとも紀元前2000年頃までには中国の広い範囲で栽培されていた。

前漢を樹立した劉邦の孫、劉安は寿春の北山(八公山)という山の南に城を営み、方士数千人を招き、八公に不老不死の霊薬を作らせたが、ならずに、ついに大豆から豆腐を作り出した(p25)

豆腐の起源は8世紀から9世紀にかけての唐代中期であるという説もある。豆腐という語が文献に現れるのは10世紀の『清異録』からである。唐代には北方遊牧民族との交流によって、乳酪(ヨーグルト)、酪(バター)、蘇(濃縮乳)、乳腐(チーズ)などの乳製品が知られていた。豆腐は、遊牧民族の乳製品を漢民族がアレンジし、豆乳を用いて乳製品の代用品として、発明されたという説を篠田統が唱えている。中国では、腐の文字は「やわらかい個体」を意味することが多いので、豆乳で作った植物性チーズを乳腐をもじって「豆腐」としたという説だ。豆腐にはまだまだ未解明なことが多いようだ。(出典:豆腐

劉 安

劉安(りゅうあん、紀元前179年から紀元前122年)は、漢の高祖劉邦の七男の淮南厲王劉長の長男であり、劉不害・劉遷の父である。紀元前174年、父の劉長は柴奇の謀反に加わったとして流罪となったが、劉長の4人の子は文帝によって助けられ、劉安は紀元前172年に阜陵侯、紀元前164年には淮南王に転じている。景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生すると景帝が派遣した丞相の張釈之に「私が王の軍勢を率いて、指揮を執りとうございます」と述べて、淮南王の軍勢を指揮して反乱軍に加担しないように手配したため、劉安は呉楚七国の乱は未遂に終わる。劉安は以後も武備をかため、景帝を継いだ武帝の匈奴討伐に反対した。武帝の徴兵策に応じてないため、2県の所領を削減された。劉安は反乱の計画を練ったが、密告により露顕し、劉安は自害し、一族はことごとく処刑された。劉安の著書『淮南子(えなんじ)』の「泰族訓」には「桀紂を王とはしない。湯武を放伐したとはしない」という記述がある。君主の無道を武力で諫めることの正統性を主張していた。この泰族訓の一部を抜粋するとそこに書かれていることは日本の寺子屋で1000年に渡って教科書とされた実語教の教えと同根のように感じるのは自分だけだろうか。
(出典:中国古典

呉音・漢音・唐音

淮南子は、前述の通り淮南王劉安が編纂させた思想書で日本へはかなり古い時代から入った。なぜかといえば、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音の「えなんじ」と読むためだ。大豆も漢音の大豆(たとう)ではなく、呉音のだいずと呼ぶ。呉音は、和音(やまとごえ、わおん)と呼び、7-8世紀に漢音が伝わる以前に日本に定着していた漢字音だ。漢字には音読みと訓読みがあり、音読みは中国から伝来した読み方であり、つまり漢音だ。一方の訓読みは元々日本にあった読み方であり、呉音、つまり和音と言うことなのか。呉音は中国南北朝の長江下流の呉地方の発音とされているが、日本にはいつ来たのか不明なほど古いとされる。漢音は平安時代に伝わり、呉音を駆逐する勢いだったが、歴史が古く民衆の間で根強く残った。唐おんは平安時代末期から江戸時代に導入されたが、定着した言葉は少ない。呉音は、特に、仏教と医療関係に目立つ。たとえば、如来のニョライは呉音で漢音ならジョライだ。供養のクヨウも呉音で漢音ならキョウヨウだ。外科のゲカも呉音で漢音ならガイカだ。小児科のショウニカも呉音で漢音ならショウジカだ。つまり、外来語としての漢音が平安時代に大量に入ってきたが、日本古来の読み方和音(=呉音)は市民・国民の間で浸透していて、生き残ったと言うことだ。

(出典:語学学校葵

豆腐と納豆

大豆(だいず)は、前述の通り呉音だ。大豆は菽(しゃく)あるいは菽荏(しゃくしん)と記され、古くは4000年前から栽培されていたと推定されている。また、1世紀の頃には大豆(たとう)と呼ばれ、中国東北部、黒龍江沿岸で栽培された。古事記には大豆の文字が使われており、古くは「おおまめ」と呼ばれていた。中国との往来が盛んになった7世紀以後には豆腐・味噌・醤油・納豆などの大豆食品が発達したと言われている。

大豆の起源

大豆は、マメ科の一年草であり、古名をオオマメ、ミソマメという。種子を食用や加工原料、油や飼料に使い、茎葉全体も飼料とし、温帯を中心とした地域で栽培される。大豆は窒素を成長の栄養源とし、また根粒菌は大豆が葉で光合成した炭水化物を供給される。このように互いに共生関係をもって生活する。夏から秋に葉腋から短い花枝を出し、多数の花をつける。花枝に1ないし数個の花が実って莢(さや)となり、莢は長さ2~7センチメートルで、莢の中に1~5個、普通は2~3個の種子が入る。
(出典:コトバンク

神農本草経

漢方の古典は、今から2000年前に書かれた『神農本草経』だ。この神農本草経は伝説上の皇帝である炎帝神農が記したといわれ、当時の薬物に関わる情報をまとめた集大成だ。当時は紙がないため、木片や絹布に手書きした。5世紀末になると梁の陶弘景(とうこうけい)として底本を完成させた。さらに、陶弘景が校定した名医別録(めいいべつろく)と合本し、さらに自らの意見を書き加えた神農本草経集註(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)を編纂した。神農本草経には365種の薬物が効能によって上・中・下の3種に分類されている。120種の上薬は無毒で命を養う。120種の中薬は上薬を助ける作用をもち、体の抵抗力を養います。そして、125種類の下薬は、毒性が強いので長く服用してはいけない。あくまで、上薬や中薬を補佐する作用にとどめるべきという。病気の原因となっている邪毒を除き、欝積(うっせき)を破り散らす作用がある。

(出典:tenki)

黄帝と炎帝

黄帝(こうてい:紀元前2510年~紀元前2448年)は三皇の治世を継ぎ中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。一方、炎帝は中国太古の伝説的な帝王である。五行思想で火にあたる位置にいるところから,三皇の一人として炎帝神農氏だ。前述の神農本草経を記したとされる。黄帝は、それ以前に黄河中流域を治めていた炎帝神農氏に勝利して中原を制した。近年の研究では、黄帝=黄河文明(雑穀畑作民)、炎帝=長江文明(稲作漁労民)の戦いとされている。黄帝と炎帝異母兄弟であるが両者の戦いでは黄帝が勝利し、勝った黄帝の子孫が漢民族となった。負けた炎帝はその後、敗れた炎帝の子孫が韓を経由して倭に移り、日本の天皇になったと言う説もあるようだ。

(出典:ameblo

まとめ

劉安の著書淮南子(えなんじ)には実語教につながる日本的な思想を感じる。また、炎帝神農が記した神農本草経は単なる漢方の本ではなく、思想書だと思う。薬を上中下に分けるなどの知恵には頭が下がる。現在のコロナ禍の混乱を炎帝がみたらなんと言うのだろうか。さまざまな文化は中国や朝鮮から日本に伝わったとされるが、呉音の時代の出来事と漢音の時代の出来事かは区別して理解しておく必要があると感じた。また、呉音は和音とも言い、大和の国と長江下流の呉地方との関係も気になる。個人的には、鬼界カルデラの大噴火で西日本から逃避した民族が東アジアや南アジア、西アジアなどに散らばった可能性との関係が気になるところだ。

以上

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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