彩文土器は紀元前5,000年ごろから突如世界中で出現する。なぜだろう。

はじめに

これまで縄文土器については何度か投稿している。紀元前7000年から紀元前2000年ごろにヨーロッパ各地で出土する縄目文土器についても投稿した。しかし、昨日シルクロード関連の本を読んでいたら彩文(さいもん)土器という言葉を目にした。初めて聞くのでびっくりした。英語では、「painted pottery」と呼ぶようだ。なんだかよく分からないので調べてみたら、紀元前5,000年々前ぐらいから4大文明のエリアから出土していた。これは一体どういうことなのだろう。

土器とガラス製品

ヒトが土器を使うようになったのはいつ頃か。図書(出典)によると、土器(Pit fired)は紀元前29,000~25,000年にまでさかのぼる。数千年にわたって土器のみが作られ、約5,000年前に徐々に石器が発達した。その後、数千年の間に消滅した。なぜ消滅したかは諸説あるが、一つはガラスの発明がある。ガラスの歴史は紀元前4,000年の古代メソポタミア文明まで遡る。天然ガラスが存在し、石灰と砂など身近な材料で作れるため、古くから武器や陶器として活用されてきた。メソポタミアで紀元前1,600年頃、エジプトで紀元前1,500年頃に持続的なガラス生産が行われている。しかし、なぜ突然、彩文土器が紀元前5,000年頃から急に世界各地で利用されるようになったのだろう。個人的には7,300年前(紀元前5,300年前)に発生した鬼界カルデラの大噴火が関係しているのではないかという気がするが、どうなのだろう。

国立考古学博物館

話を土器に戻す。ギリシャのアテネにある国立考古学博物館は、世界でも有数の偉大な美術館の一つと数えられている。世界中のギリシャ古代からの遺物のコレクションが集まっている。大英博物館やルーブル美術館を含め、世界の主要な美術館を巡ってじっくりと観察したいという希望・願望が湧き起こる。

(出典:国立考古学博物館

世界主要文明エリアでの彩文土器の出現

メソポタミアの彩文土器(紀元前5,000-4,500年)

紀元前5,000年ごろ(紀元前6,000年の説もある)のメソポタミア北部にハッスーナ文化の遺跡からは下の図(左)のように、マッコール種ヤギを描いた彩文土器が発掘されている。イラクのラス・アル・アミヤ遺跡からは、下の図(右)のように麦を描いた彩文土器が出土している。彩文土器は通常幾何学模様が多く、次に動物が描かれており、農耕文化の姿を見ることは稀だ。
(出典:ムギとヒツジの考古学

ギリシャ先史時代ギャラリー(紀元前4,800年)

下の図は、古代ギリシャの遺跡から発掘された新石器時代のセスクロ出土のピトスだ。紀元前4800年頃と想定されている。ピトスとは、独特の形状をした貯蔵用の甕(かめ)だ。古代の地中海のピトスは、ギリシア本土ではなく、クレタ島やヘレニズム期以前のレバントなどが産地という。

(出典:国立考古学博物館

河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5,000-3,300年)

中国文明の発生地は黄河とされるが、その黄河駐留全域に存在する新石器時代の文化を仰韶文化(ぎょうしょうぶんか:Yangshao culture)という。黄河中流域に住みついた人びとは紀元前5,000年から紀元前4,000年ころに、豚・犬・鶏を家畜とし、アワなど雑穀を中心とする農耕文化を発達させた。素焼きの淡紅色の土器面に赤・白・黒などで文様をほどこした彩文土器を使用していた。仰韶文化を代表する遺跡には陝西省西安にある半坡遺跡などがある。同じ頃、長江下流域でも河姆渡(かぼと)遺跡や良渚遺跡など、人工的な水田施設を持つ集落が発生した。河姆渡遺跡は1970年代に発掘され、長江下流域で紀元前5,000年から紀元前3,300年頃に稲作農耕が行わっていた。これは仰韶文化の時期と同じ時期である。なぜ、突然紀元前5,000年ごろに黄河や長江の下流域で農耕文化が突如出現したのだろう。
(出典:中国文明の発生

インダス文明の彩文土器

4大文明の一つであるインダスでも、彩文土器が発掘されている。場所は、パキスタンのバローチスターンであり、紀元前3,000年から2,000年のものだという。高さは12.5cm程度なので、手のみ茶碗程度か。轆轤(ろくろ)で挽かれ、単純な文様から幾何学文や鳥、動物文が知られている。下の図は、緊張感のあるシャープな造形で、やや赤味がかった地に、口縁の内側のみ茶色ががった赤色のラインを描きそのほかはモノクロの単色で可愛らしいインダス文明のコブウシが描かれている。美しく気品のあるインダスの作品だ。

(出典:彩文土器

エジプトのナカダ期(紀元前4,000年から紀元前3,000年)

同じく4大文明の一つであるエジプトでも土器が出土しているが、エジプトは先行している。旧石器文化と新石器文化の文化層が連続するナブタ・プラヤ遺跡では紀元前6,150年頃の土器が出土している。六条大麦の栽培、牛の飼育とともに、波状文や櫛目文をほどこした黄褐色の土器でナブタ新石器文化と言われている。紀元前5,500年頃になると、農耕と牧畜が生業の中心となり、土器は多様化し、赤みを帯びる傾向を示し、赤色磨研土器につながっている。先王朝時代の紀元前5,000年頃の上エジプトに始まるパダリ文化期では、赤色の薄手の磨研土器の変形である口縁部と内側を黒化させた黒頂土器が出土している。紀元前4,000年頃から紀元前3,600年頃にかけてのナカダI期では黒頂土器や赤色磨研土器が、続きナカダII期では、下の図に示すような、赤色顔料による彩文土器が盛んに作られるようになった。文様の中心となっているのは船であり、マストには呪物を示す標章が描かれている。古王国時代(紀元前2,686年頃から紀元前2,185年前後)や中王国時代(紀元前2,040年頃から紀元前18世紀)にも磨研土器がみられ、新王国時代(紀元前1,570年頃から紀元前1,070年頃)には、多種多様な彩文土器が盛んに作られた。

(出典:土器

ハブール土器(紀元前2,000年期前半)

テル・スウェイジ遺跡は、テル・ジガーンよりティグリス河をさらに遡ったところにあり、急斜面をもつ遺丘の中心部の周囲に、なだらかな斜面が広がり、道路を挟んで遺跡の北側にティグリス河が流れる。この遺跡の主丘の周囲では、前2千年紀前半のハブール土器が出土している。
(出典:テル・スウェイジ遺跡

イランと中国の彩文土器(紀元前2,200年から紀元前1,500年頃)

下の図(左)はイラン中西部にて、紀元前2,000年から紀元前1,500年頃の彩文土器として出土した。一方、下の図(右)は、中国の甘粛地方にて、紀元前2,200年から紀元前2,000年ごろに出土した彩陶双耳附小壺だ。非常によく似ているが、現在のところイランと中国を結ぶ中央アジアでは同種の彩文土器は出土していない。新石器時代末期の東欧には、類似の渦巻文をもつ彩文土器が存在している。

(出典:オリエン太の美術館日記

縄文土器の変遷

今から19,000年前の最寒冷期後の時期に海面は今より約120メートルも低かった海退の時代には、中国と沖縄と日本は地続きだった。その頃には今の日本海や東シナ海は内海で温暖で魚も豊富で豊かなエリアだったのだろう。その後、温暖化の時期になると年速1–2cmで海進が進み、約5,500年前の縄文前期中葉の海進頂期には、海水準は現在より4.4メートル高かった。年々海面が上昇するだけではなく、内海だったエリアが外洋となる状況は想像を絶するカタストロフィーだ。そんな苦難の時期を乗り越えて生き続けたのが縄文人だ。しかし、そんな縄文人には多くの苦難が襲いかかる。その一つが約7,300年前に発生した鬼界カルデラだ。九州や四国、中国に住んでいた海洋民族は生き残りをかけて外洋に活路を求めたとしても不思議ではないだろう。

(出典:Try It)

まとめ

中国、インド、メソポタミア、エジプトを4大文明発祥の地と子供達が習う。長野県で縄文土器が出土しているすぐ近くの小学校を訪問した時に、廊下には、縄文土器のポスターと、世界4大文明のポスターが並んで貼ってあった。校長先生と会話する機会があり、縄文文明の方が古いのに世界4大に含まれていないのは変ですねと言ったら、「確かに!」と真剣に悩まれていたのが印象的だった。多分、考えたことも指摘されたこともなかったのだろう。そもそもなぜ4大文明は大河からなのか。もしかすると、鬼界カルデラの大噴火から船で四方に逃げた縄文人は海から大河を登って新天地を探したのではないだろうか。そんな可能性を考えると歴史は楽しい。
(出典:郡電気

以上

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