思い返すと挫折と失敗の繰り返しのような人生だったけど、3つの夢はこれからさ。

はじめに

サザエさんのお父さんの波平さんは、永遠の54歳だ。なぜかといえば、定年の1年前という設定で、当時の定年は55歳だった。自分より10歳近く若いということに驚きを感じる。今日は軽く自分の人生を振り返ってみたいセンチメンタルな気分だ。まあ、挫折と失敗の連続だったけど、それなりに面白かったし、それぞれのフェーズでは一生懸命に頑張ったつもりだ。叶わなかった夢は多いけど、それを超える世界も楽しんだ。今後が自分でも楽しみだ。

ボーイスカウトと英会話の代わりに古い教科書

自分が5歳の時、親父は42歳の若さで他界した。シベリア抑留が影響したと思っている。母親は、女学校時代の友人が経営する経理事務所でアシスタントとして勤務して生活を繋いだ。母親の実家は農家なので、食べる米には困ったことがなく、あまり悲壮感はなかったけど、豊かとは言えなかった。トースターが欲しいとなり、購入したのが2月だ。なぜかといえば1月とか3月に比べる3日ほど少ないので、その分の生活費が浮くはずという計算からだった。小学校5年生とか6年生になると、クラスで数人が教室で残って勉強していた。私立の中学校を受験するためだ。羨ましい気持ちを感じた。小学校の時に、2回ほど母親にお願いをしたことがある。一つがボーイスカウトで、もう一つは英会話だ。当時は長男を高校に進学させるのにお金がかかると説明された。代わりに兄や姉から中学で習う英語や数学の教科書を貰った。中学に上がる前の春休みに数学と英語の1年生の教科書は全部勉強したので、中学に入ってからも英語と数学はダントツに成績が良かった。当時の英語をもっと勉強したいという気持ちが海外志向の自分を形成させたような気がする。

大学ではなく高専

中学に入ってバスケットボール部に入部した。1年生の時は150cmほどだったけど、2年生の時には160cmに、3年生の時には170cm程になっていた。小学校では中ぐらいだったのに、6年生になると低い方になり、景色が変わったので、絶対に大きくなると毎日牛乳飲んで、ジャンプばかりしていたら本当に大きくなった。母親からは、長男が高校卒業して働くことが決まっていたので、次男である自分も高校までは進学させるけど大学は無理と言われた。それでも、もし、頑張って高専に合格したら応援すると言われた。2年生から3年生になる時には、弱小チームのバスケット部のキャプテンをしていた。なかなか勝てずに悔しい思いをしていたけど、練習は頑張った。そんな中、上級生の不良がよく遊びに来ていた。キャプテンとして注意すると、生意気だと頭突きをくらった。目の前で火花が飛んでクラクラしたことを今も覚えている。工業高校に行くとその不良がいる。絶対に嫌だと猛勉強してなんとか奈良高専に合格した。良かった。

奈良女子大とのパートナー活動

高専では最初の半年間の授業料は払ったけど他の4年半は授業料免除だった。また、給付型の奨学金が確か毎月4500円で、ほぼ寮の食費で消えた。でも、4年生になると大学相当で毎月1万2千円の支給に増額されたけど、寮費は同じなので、突然余裕ができた。当時、奈良女子大学が社交ダンス部のパートナー校を探していた。奈良高専でも卒業生で社交ダンスにハマっていた先輩が指導者となって社交ダンスの同好会ができた。楽しかった。40年以上経過して特に男性陣はダンサーとはほど遠い体型になったものばかりだけど、今でも付き合いは続いている。コロナ禍が落ち着いたらまた練習したいところだ。卒業前に付き合っていた奈良女子大学の女の子は今頃どうしているのだろうか。自分は卒業してから東京に来て独身生活を謳歌していたけど、30歳の誕生日に田舎に帰省すると見合い写真が三枚あり、「もう十分に遊んだろう。ここから選び。」と諭された。このままではまずいと、東京に戻ってから頑張って、知り合った女性と恋に落ち、付き合い始め、無事ゴールインした。

富士写真フィルムではなく国際電信電話株式会社

話は前後するけど、高専の5年生の時に、長岡技術科学大学院大学と豊橋技術科学大学院大学が設立された。早く社会に出て遊びたいと思っている自分は進学するつもりはなかった。当時、英語を頑張って勉強していて、海外に興味を持っていたので、海外赴任する人材を探していた富士写真フィルムを受験した。受験会場は足柄山の研修センターだった。大学生も修士も博士もいる中で試験を受けた。それなりに手応えがあると思ったけど、大失敗していた。試験開始時に係の人が「この試験は減点法です」と説明していた。間違った回答をしたら減点されるのは当たり前だと早合点したけど、そうではなかった。つまり、100点満点の問題で、正解が70点、間違いが20点、記入なしが10点だとすると、減点法では70点マイナス20点、つまり50点となる。これだけではないけど、面接でも圧迫面接だった。結果は不合格だった。高専の先生が頑張って就職活動を支援してくれて、現在のKDDI(当時は国際電信電話株式会社)の就職試験を受けることができた。ここでは大学卒のコースではなく、高校卒と高専卒が同じコースで試験も富士写真フィルムの試験と比べると簡単で、多分ほぼ満点だったような気がする。履歴書に社交ダンスが趣味と書いたら、面接試験の時に面接官から「パートナー校が奈良女だと年上だろう。気にならないか?」と聞かれ、全く気になりませんなどと回答した記憶がある。実はその面接官は今で言う本部長のような人で、茨城県の研修センターでキャンプファイアをした時には参加されていて、ルンバを踊るから女性役をしろと指名された。当時のKDDではクリスマスパーティが盛んでダンスを踊れることがアピールポイントになっていたようだ。まあ、運よく入社が決まって良かった。でも、正直に言えば、高専のクラスで成績が1番と2番がそれぞれ大学院大学に進学し、3番と4番は就職を決めていた。東京大学への編入の話があり、5番の自分にもチャンスがあった。トライすれば入れる可能性はあるけど、その場合にはKDDへの入社をキャンセルする必要があったし、どちらもダメなら留年だ。リスクやデメリットの方が大きいと東京大学への編入試験の受験はやむなく諦めた。それでも東大との縁は続いた。

東京大学の秋山稔教授との縁

通信事業では、その利用度合いや需要をトラヒックという。特に、業務系はトラフィックという人もいるけど、技術系はトラヒックという。なぜかといえば、この通信技術の世界ではトラヒックと呼んでいたからだ。その第一任者が秋山稔教授であった。アーランB式の授業は本当に面白くて良く考えたなあと感心した。2年間の職場を離れて研修センターでみっちりと研修を受けた。データ通信の浅井正一郎教授の授業も最高に面白かった。法学の授業や経済学の授業、英語、フランス語の授業などもあった。2年目は卒業研究のテーマを決める。自分は迷わず秋山教授に師事した。テーマは通信放送統合網の最適設定手法だ。先生からは、弧度法(ラジアン)に基づいて、コストを最小にする半径と角度を求めよと宿題が出た。何度計算しても最適値が出ない。仕方なく、x座標とy座標にして、最適な長さを計算したら、最適値が出た!解けた瞬間びっくりしたけど、色々数値を入れると正しいことを確信できた。本当なら学会発表でもするべきだったかもしれないけど、当時はそこまでは期待されていなかったようだ。なぜ正しいと確信できたかといえば、葉っぱのような形になるためだ。つまり幹線が1本あると、そこから垂直な支線がいくつも現れ、さらにその支線から長方形のエリアが連なる。そして、この長方形の縦と横の比率が、管路のコストや電柱のコスト、線材のコストなどで決まる。秋山教授からは高く評価いただき、結婚式にも主賓の一人として参列してもらった。油絵が趣味と伺い研修センター卒業時に贈ると、とても喜んで頂けたのが懐かしい。しかし、平成29年12月15日に逝去された(参考)。ご冥福をお祈りします。

固定通信ではなく移動体通信

KDDの頃はいわゆる国際通信が事業の対象だった。国際電話や国際テレックス、国際データ通信などだ。個人の利用者も増えていたが、自分は法人向けのソリューション事業が長い。1997年3月に沖縄に赴任になり、1999年9月に沖縄から香港に赴任した。香港も沖縄もエキサイティングだったけど、香港でモバイルのセミナーを受講して、これからはモバイルの世界だと思った。当時、IMT2000(いわゆる第3世代携帯電話)が注目を集めていた時期だったからだろう。これから面白いのは携帯だと密かに思っていたが、そんな想いが通じたのだろうか、帰国してしばらくは海外営業部という部署だったけど、その後しばらくしてauの関東支社法人営業部に配属になった。その後のモバイルの仕事の幕開けだ。

瀕死のテレハウスがインターネットのメッカに

話は少し戻るが、結婚したのが平成元年だった。その後3年ほどは総合商社の営業を担当した。当時の商社にはメッセージサービスを提供して、月間で数千万円の売り上げがあった。今で言うメールだけど、当時は特注でかつ、個別に仕様書を書いて開発したので、高価だった。その後、グループ会社の経営を支援する部署に配属された。担当したのはテレハウスアメリカとテレハウスヨーロッパだった。ともにバブルの絶頂期の1989年ごろに設立した会社だ。資本金が30億円。過剰な設備投資と、バブル崩壊で需要が伸びず経営の危機に直面していた。売り上げ10億円に対して、費用が20億円だった。倒産するのは時間の問題だったけど、当時のKDDから見ると戦略的な企業なので潰すつもりはない。野村総研や鹿島建設、都銀、証券会社などが出資するいわゆるジョイントベンチャー会社だった。資金難に陥るのは目に見えているので、抜本的な経営改善を条件に増資を呼びかけたがどこも応じない。当然だろう。住友銀行からは、あれは出資という名前の融資だ。返却して欲しいと言われた。野村総研からは、増資には応じられないので撤退すると宣言を受けた。撤退に当たっては、コアメンバーとしての責任もあるので、ペナルティを支払うという話があり、そのペナルティ金を計算したらなんとマイナスのペナルティ金を要求してきた。そんなこんなで大変だったけど、最終的には現状の出資金は全て減資して、KDDの100%子会社として再生することになる。それまでの経営陣は出資比率に応じた取締役などがいたが、全て一掃し、過剰な設備も整理し、コスト削減のため現地化を促進して、日本からの出向者を数名にした。そんな時に、サイトを探していたインターネットプロバイダーの目にとまり、結果的にテレハウス各社はインターネットプロバイダーのメッカとなり、インターネットの黎明期を支えるとともに、テレハウスの成長の原動力となった。今では全世界に進出して活躍している。

(出典:zdnet)

テレハウスの窮地に直面して経営の猛勉強

そんな風に海外子会社の増資や減資などをする仕事に従事する自分が全く経営のことがわからない。決算書の読み方もわからない。最初に勉強したのは、英国式の会計学で、テレハウスヨーロッパの評価減による特別損失の計上だった。当時の日本では土地の値段は下がらないと考えるのが常識だったが、ヨーロッパでは値下げが起きていた。かつ簿価ではなく、時価だったので、評価が下がると、それに応じて特別損失を計上しないといけない。そんなことを調べてレポートにしたのが最初の仕事だ。その後、テレハウスアメリカの増資の話があり、通常なら3年で単黒、5年で累積損失の解消というカーブを描くが、とても無理なので、10年で単黒、20年で累損解消というカーブをA4では書ききれないので、A3の用紙で書いて、役員会に諮った。なんとか無事承認いただき、関係者で祝杯をあげたけど、今となっては良く通ったものと思う。流石に経営の知識が不足していると痛感したが、中小企業診断士の勉強をしたのが少しは役立った。

中小企業診断士ではなく技術士

正確に書くと中小企業診断士の勉強を始めたのは営業部門にいた頃だ。通信教育を受けていて、コンサルのスキルが大事だと感じるようになり、経営コンサルの国家資格である中小企業診断士の講座を受けた。人事異動の話は、そのような講座を受けていたことも影響したのではと思う。一次試験は歯が立たないと諦めたけど、運良く合格していた。通信教育の成績もあまり良くなかったけど、合格したら後追いで通信教育の会社から成績優秀賞がきて、びっくりしたのを覚えている。そして、その直後の二次試験は流石に不合格だった。1年間みっちり勉強して2回目の二次試験にはそれなりに手応えがあったけど結果は残念だった。もう一度トライしようかとも思ったけど、希望のソリューション部門への異動が決まったのと、当時の中小企業診断士の一次試験の合格は永年有効だったので、また、暇になったらチャレンジしようとお蔵入りさせてしまった。

シンガポールではなく香港

ソリューション部門ではホンダ技研や三菱自動車などのグローバルネットの構築を担当した。コマツへの提案は、最初のトラヒック分析から行い、コマツの海外拠点を訪問した。なぜ出張するかというと、名目は現地調査だけど、本当は現地のIT担当者への説明(説得)だった。特に、コマツヨーロッパでITを統括していたベルギーのスタッフは手強かった。最後の最後は本社の決定と押し切ったけど、データと音声は分離して、音声はVPNで安いキャリアを選択するのがベストという持論には納得する部分もあり、結構説得に苦労した。当時は年間3−4回は海外に出張していた。人事希望調書にも海外赴任を希望した。希望先はシンガポールと記入したけど、前述の通り赴任先は香港だった。私の知人は、インド以外なら海外に赴任しても良いと書いてインド赴任だった。別の知人はフランスを希望と書いたらNYで、NYでもフランスを希望して、やっとフランスに赴任した。なかなか希望を叶えないのが当時のKDDの文化だった。

退職独立ではなく、再雇用兼業

50歳の時に3週間の長期休暇をもらい、55歳で役職定年になり、60歳で定年というのがKDDIの人事ローテーションだった。3週間のうち1週間は家族で国内を旅行して、残り2週間はゴールドコーストのゴルフ合宿でゴルフ三昧の生活を2週間堪能した。技術士を目指したのが、ちょうど55歳の頃だ。一次試験に合格し、2016年に電気電子、2017年に総合技術監理部門、2018年に経営工学部門に合格した。定年後はどうするかと思案したけど、技術士の資格を持っていたらランクAという好条件での再雇用が可能だったので、結局再雇用の道を選んだ。そのタイミングで副業の可能性も検討した。当時の人事部門と相談すると副業解禁を検討しているとあったが、蓋を開けてみると、副業はまだ早いとなり、社内副業が解禁された。しかし、再雇用の社員は対象外だった。まあ、その後も二転三転したけど、個人事業主であれば大丈夫となり、日本技術士会に提出する同意書にもOKをもらえることになった。仕事は正直面白いとも言えないが、後1年半ほどの残された期間は働きながら、技術士としての活動を積みながらコネと実績を積み重ねて行こうと思う。

将来の3つの夢

息子も希望の大学ではなかったけど、やりがいのあるコースを歩み出している。まだ、2年間ほどは研修期間だけど、自分の得意な分野、好きな分野、やりがいのある分野をぜひ見つけてほしいと思う。その3つが重なれば最高だろう。自分は、将来の夢と言えるものが3つある。

社会起業家

法政大学経営大学院で感銘を受けたのは、社会起業家だ。つまり、ボランティアとしての活動ではなく、営利目的の活動を通じて社会の課題を解決する人たちだ。実際に活動をしている先駆者の話を聞くと、営利目的の法人と、非営利目的のNPO団体の両方で活躍されているケースが多い。人を動員するのにはNPOが向いていて、資金を調達するには株式会社が向いている。収益にはならないけど、NPO活動で社会的な存在意義が高まった結果、法人としての収益が高まったという。ソーシャルイノベータには正直憧れるし、技術士としての活動を通じて実践できれば嬉しいと思う。

エージシューター

私生活での憧れはゴルフのエージシューターだ。例えば、72歳でパープレイをする人。石川遼のように58でプレイする人なら58歳で実現するかもしれない。90歳でも元気なら90で回れる人もいる。健康と適度な経済的余裕と交友関係を兼ね備えていないとエージシュータにはなれない。だからこそ憧れる。狙いは78歳ぐらいで78かなあ。詳しくは別に投稿

世界放浪の旅

最後の夢は世界放浪の旅だ。まだまだ元気だけど、70歳をすぎるとやはり体力的には低下傾向だろう。60歳のうちにヨーロッパやロシアやアジアなどを旅したい。1年のうち2-3ヶ月は放浪の旅に出て、そのネタでYouTubeなどでマネタイズするという趣味と実益を兼ねた生活をしたいと思う。

以上

最後まで与太話に付き合っていただきありがとうござます。詳しくはキャリアの欄でも投稿しています。テレハウスの裏話を書くかどうか悩んだけど、合併前の話だし、時効だろうと解釈した。参考になる点があればいいね(ハートマーク)をクリックして頂けると励みになります。

 

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