暦の歴史。縄文人も四季を感じていた。西暦より仏暦より古い日本の皇紀の認知度を高めたい。

はじめに

オリンピック2020の開会式が2021年7月23日に開催された。すでに男女のサッカーや女子のソフトボールなどでは日本チームの奮戦が目立つ。コロナ禍への対応を含め課題が山積しているが、無事終了することを願いたい。 そんなオリンピック一色の日々だけど、東北大学名誉教授の田中英道さんの「神武天皇の真実」と いう書籍が気になってKindleで購入した。冒頭に「昭和15年(1940年)に皇紀2600年の盛大な紀元節が行われた。」と記載がある。また、「零戦=零式艦上戦闘機のゼロは2600年のゼロです。」と注記があった。皇紀のことは知っていたけど、零戦のゼロの由来は知らなかった。日本の教育では皇紀のことを教えない。受験にも出ない。多くの特に 若い日本人は知らない。そのため、皇紀を中心に暦について少しレビューしてみたいと思った。

皇紀(こうき)とは

皇紀とは、日本の初代の天皇である神武天皇が即位した日を紀元とする日本独自の暦だ。皇紀元年は紀元前660年の旧暦での1月1日だ 。現在の暦だと2月11日だ。建国の日が2月11日なのは、紀元前660年2月11日に日本が建国したことを祝うという意味だけど、そこまでのことを知っている人は多くない。

縄文時代の暦

金山巨石群

魏志倭人伝において、「倭人は暦を知らない。春に耕作をはじめ、秋に収穫することで1年としている」と書かれていると言う。暦はなくても、春分と秋分は理解していた。春夏秋冬という言葉があったかどうかは不明だけど、当然それを意識して生活していた。なぜそんなことが言えるのかといえば、岐阜県下呂市の金山町にある「金山巨石群」だ。これは4,500年以上前に作られた縄文時代の史跡だ。不思議なことは、四年に一度だけ、巨石と巨石の間から光が差し込むことだ。つまり、四年に一度の「うるう年」を理解していた事になる。恐るべし縄文人の知力だ。

(出典:FM GIFU)

大湯環状列石

全国には178箇所のストーンサークルが確認されている。主に6,000年前頃のもので、その約4割が東北の秋田県に集中している。1931年に秋田県十和田で発見された大湯環状列石は特に有名だ。ここには、野中堂環状列石は下の図にあるように日時計と考えられるが、その野中堂環状列石と隣接する万座環状列石の中心を結ぶと夏至となる。さらに、三角錐の黒又山が二至二分の目印となっている。これは時刻を計るとともに、暦を計ったのではないかと考えられている。

(出典:4travel.jp)

元嘉暦

日本書紀によると西暦553年には朝鮮半島の百済経由で宗の時代の中国の暦である元嘉暦(げんかれき)が日本に伝わった。西暦645大化の改新で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)が暦の作成などを行なった。平安時代の陰陽師として名高い安倍晴明は、前首相の安倍晋三の先祖だ。

(出典:安倍晴明)

渋川春海による貞享暦への改暦

暦は朝廷が制定していたが、鎌倉時代以降は朝廷の力が弱まり、京で作った暦を各地で独自に作るようになる。戦国時代には、京と地方で閏(うるう)日や閏月を調整する置閏法が異なるなど不具合が生じた。日本では、宣明暦(せんみょうれき)が862年2月3日(貞観4年1月1日)から823年間も使われた。この間の暦のずれはなんというか2日だった。1685年(貞享2年1月1日)に渋川晴海によって貞享暦(じょうきょうれき)が編纂され、改暦した。江戸時代には、西洋の天文学を取り入れながら4回の改暦が行われた。この渋川春海は、1677年に神武天皇即位の年の7年前甲寅の年(紀元前667年)から貞享二年(1685年)までの約2350年間の干支を計算し、日本長暦(にほんちょうれき)を編纂した。神武天皇の時代からの2,000年をカバーしている。

(出典:国立天文台)

神武天皇即位紀元に基づく皇紀

皇紀と呼ばれる神武天皇即位紀元が正式に制定されたのは、1872年(明治5年)の11月15日だ。太政官布告第342号として「今般太陽暦御頒行 神武天皇即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事」として布告さレた。明治改暦により、グレゴリオ暦1873年(明治6年)1月1日からはグレゴリオ暦が使われ、現在に至っている。皇紀の制定に当たっては、江戸時代に渋川晴海が編纂した日本長暦がベースとなった。

参拝の御朱印

神社仏閣に参拝した時には御朱印帳を購入することができる。ネットで見るといろいろな御朱印帳を確認できる。便利な世の中になったと思う。その多くは元号で書かれているが、よく調べると皇紀で年月日まで記載した鴨池日枝神社(左)や、元号で年月日を皇紀で年のみを記載する大阪淀屋橋(中)、そして、まるでスタンプのように皇紀の年表示をする明治神宮(右)があった。世の中からまだ無くなっていないことに少しほっとした。
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出典:左(参考1)、中(参考2)、右(参考3

紀年法

紀年法(暦)には、次の3種類がある。ここでは特に主要国の紀元法について外観してみたい。

紀元法:西暦、ヒジュラ暦、仏暦、皇紀などの無限の暦
元号:君主や天皇の即位や事件などでリセットされる有限の暦
周期法:60年周期の干支や15年周期のインディクティオンなどの循環式システム。
⇨ 還暦の由来は、この干支を1周し、生まれた年の干支に戻るので暦が還ったと祝う。2週した場合には大還暦と言う。中国では花甲と行って61歳の誕生日を祝う。
紀元法として有名なのは西暦だろう。これはイエスキリストが生まれたとされる年の翌年を元年とした紀年法であり、紀元後をAC、紀元前をBCと略す。

ヒジュラ太陰暦

イスラム教社会で使われている暦法がヒジュラ太陰暦だ。預言者ムハンマドが聖遷したユリウス暦622年を元年とした。月の周期をベースにする太陰暦なので、太陽の周期をベースにする太陽暦とは年に11日ほどずれる。

ユリウス暦

共和政ローマや帝政ローマで使われていた暦だが、西ローマ帝国滅亡後も欧州で使われた。紀元前45年が元年だ。太陽暦だが、平均太陽年を365.25日とする。つまり、1年は365日だが4年に1度は366日とした。

仏暦

釈迦が入滅したとされる年またはその翌年を元年とする紀年法であり、仏滅紀元ともいう。西暦は生誕をトリガーとするが、仏暦は入滅をトリガーにする。ミャンマーやスリランカの仏暦元年は紀元前544年だ。一方、タイ王国、カンボジア、ラオスの仏滅元年は紀元前543年だ。国によって解釈が違っているのが面白い。

皇紀

神武天皇が即位された日を起源とする。紀元前660年を皇紀元年とする。ちなみに、建国記念の日の2月11日は、そもそもは日本の建国を祝う日だ。なぜ2月11日かといえば、旧暦ではその日が元旦だったからだ。皇紀、皇暦、神武暦、日紀等などとも呼ばれるが、学校の教科書や新聞、テレビで報道されることはない。戦後GHQが使用を禁止したのは理解できるが、それがなぜ現在も続いているのかが理解できない。そろそろ日本人が目覚めても良い時期ではないだろうか。

まとめ

平成から令和の時代に移った。昨年来のコロナ禍で日本だけではなく、世界中が影響を受けている。今回のオリンピックを契機にコロナ禍からも卒業できるだろうか。日本人としては、元号の継続も貴重だが、同様に皇紀の存在をまずは理解する必要があるのではないだろうか。イスラムのヒジュラ暦よりも、西欧の西暦よりも、旧ローマ帝国のユリウス暦よりも、インドの仏暦よりも皇紀は古い。ユダヤ人は天地開闢の年を起算年とする紀年法を採用していて、現在四千幾年と称しているため、世界最古とは言えないかもしれないが、歴史と文化と夢のある「皇紀」が日本にはあるということはもっと日本人自身が知るべきではないだろうか。

以上

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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