クロマニョン人と新人類
現生人類の祖先をご存知でしょうか。約4万年前に登場したクロマニョン人が現代型のサピエンスの祖先と考えられている。下はスペイン語のWikiからの引用だ。Wikiは言語によって内容が異なっていて、フランスのラスコーに壁画が残るので、当然フランス語のWikiに掲載があるかと思ったら見つからず。英語にも、日本語にもなく、なぜかスペイン語にあった(笑)。
(出典:参考1)
ネアンデルタール人と旧人類
先のクロマニョン人以前の人類は旧人類と分類され、ネアンデルタール人がその代表だ。約40万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したとされる。下の写真は日本語のWikiからの引用で、左の写真の左が現生人類で右がネアンデルタール人の頭蓋骨だ。ネアンデルタール人の方が頭脳が大きいと見える。ネアンデルタール人とホモサピエンスは別種であり、混血ではないとされるが、最近の調査では我々ホモサピエンスにはネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているという発表もある(参考3)
(出典:参考2)
砂原(すなばら)遺跡から12万年前の国内最古の石器
2009年8月に、出雲市多伎町砂原の古地層から小石片(玉随製剥片)が発見される。砂原遺跡の学術発掘調査団は発掘された石器(36点)は11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた(参考4)。もし、これが本当ならば日本には旧人類の時代から人が住んでいたということになるのだろうか。
(出典:Geo-Yokoi、参考5)
地層と気候
12万年前に人が住んでいたと言われてもピンとこない。そもそもその頃の気候はどうだったのか。調べると、氷河期が終わり、11-12万年前は非常に温暖な気候となっている。その後、約2万年前までに4度ほど寒冷化している。そして、その後、また温暖化になっている。つまり、12万年前に反映していたネアンデルタール人等の旧人類は、氷河期になると人口が減り、約4万年前に出現したクロマニョン人等の新人類が繁栄したということなのかもしれない。このネアンデルタール人の喉仏は高い位置にあるが、クロマニョン人の喉仏は現在の人類と同様に低いところにある。このため、より複雑な言葉を話すことができる新人類が生き残ったのではないかと言う説が有力だ。
(出典:神話の里、参考6)
日本列島と大陸の古地図
12万年前の日本列島はどうたったのかを調べてみた。下の図によると、80-15万年前は九州地区と朝鮮半島が陸続きで、15-1万年前には北海道とサハリンが陸続きだったようだ。氷河期には海面が下がり、温暖化とともに海面が上昇するのが定説なので、左は温暖化の時代で、右が氷河期の時代のように見えるが、年代がアバウトすぎる。まあ、いずれにせよ、日本列島が大陸と陸続きだった可能性はあったということだ。
(出典:日本人の起源、参考7)
東アジアの旧石器文化の発展の変遷
日本での石器は、朝鮮半島経由で流入したナイフ型石器文化とサハリンから流入した細石刃型石器文化の二つの流れがあったようだ。
(出典:Geocities、参考8)
バイカル湖系縄文人と華北系縄文人
これを地図上で表したものがが下の図だ。つまり、2万年前に朝鮮半島経由でナイフ型石器文化が流入し、1.3万年前にはサハリン経由で細石刃型石器文化が流入し、8000年前にはそれが東西でそれぞれの文化圏を形成した。東日本に人口が集中している理由は諸説あるが、約7300年前に発生した鹿児島沖の姶良(あいら)カルデラ噴火で南九州地区が壊滅し、九州・四国地区の縄文人が激減したという。また、その時に、南九州から中国長江流域に一部の民族が避難したという説もあるようだ。
(出典:人類誕生と日本民族、参考9)
石器文化と日本語の方言の関係
この石器と方言の関係を調べたサイトからの引用が下の図だ。朝鮮半島経由で流入したナイフ型石器は西日本だけではなく、東日本にも展開された。しかし、その後のサハリン経由の細石刃型石器が東日本を駆逐した。そして、方言もこれらの石器の文化圏と同じように東北方言と、西日本方言、九州方言、琉球方言、八丈方言等に分化している。蛇足だが、明治維新の時代にも、東日本の武士と西日本の武士は言葉を互いに理解できなかったので、標準語を作ってこれに統一することに苦労したが、民族のルートの違いがあったかもしれない。
(出典:アートでたんぼ、参考10)
ナイフ型石器文化遺跡の分布
朝鮮半島から流入したナイフ型石器は九州地区から西日本地区、さらに東日本地区と移動するにつれて独自の進化を果たし、それぞれに特徴が出ている。しかし、北海道ではナイフ型石器は発掘されていない。
(出典:アートでたんぼ、参考10)
細石刃文化と黒曜石
サハリン経由で流入した細石刃型石器は、黒曜石を加工したものだ。黒曜石は、火山岩の一種だが、武器にも装飾品にもなる非常に貴重な材料だ。縄文時代は、この黒曜石の時代とも言われている。しかし、この黒曜石はどこでも産出するものではない。国内の代表的な産地は諏訪地区と隠岐の島だ。諏訪地区に出張した時には縄文展が盛り上がっていた。この諏訪地区は縄文中期に最も人口が集まっていた縄文王国だが、その原因はこの黒曜石だったのかもしれない。また、隠岐の島の久見高丸遺跡からは黒曜石約1万点が出土したと昨年11月に発表された。隠岐の黒曜石を使った石器は出雲市や松江市の遺跡で多数見つかっている。
(出典:黒曜石文化こそ縄文、参考11)
日本の黒曜石産地
黒曜石は、日本では約70か所から産出されるが、良質な産地は下の図に示すように、北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城、熱海市上多賀、神奈川県箱根、東京都伊豆諸島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼だ。また、考古学の成果によって、これらの黒曜石が広く全国的に流通していたことが判明している。縄文時代には、すでに高度な発掘技術や広域流通の体制ができていたことになる。
(出典:長野鷹山遺跡、参考12)
北海道白滝・赤石山の黒曜石産地
黒曜石を用いた細石刃石器は、サハリン経由で日本に流入したが、北海道の白滝・赤石山は日本有数の産地で推定埋蔵量は60億トンとも言われ、ここで産出された黒曜石は逆にサハリンを経由して大陸にも運ばれている。国際的な流通網ができていた可能性が高い。
(出典:道具革命、参考13)
まとめ
教科書では、縄文時代や石器時代の記述は多くない。過去のブログの検索数を調べると「日本の起源」を調べたものに人気があったので、今回はちょっと頑張って石器に焦点を絞って調べてみた。朝鮮半島経由で流入したナイフ型石器は、サハリン経由で流入した細石刃型石器に対抗するのは厳しかっただろう。また、細石刃方石器の材料となる黒曜石の産出者と消費者を結ぶ流通ネットワークが縄文時代にはすでに形成されていた可能性が高い。鉄文化が流入した時代においても、この黒曜石の時代に形成された流通体制が継承されたのではないか。モヤイ像の瞳に埋め込まれるほどイースター島でも黒曜石が豊富に産出し、そのイースター島の黒曜石は縄文時代に日本のマタアと呼ばれる石器の材料になっていた。Wiki(英語)によると古代マヤ時代のヤシュチラン都市遺跡や米国カリフォルニアのアメリカ先住民も黒曜石を使っていたという。そして、注目すべきことは、これら縄文時代の石器はあくまで狩猟等のための工具であって、人と人が戦うための武器ではなかったという点だ。日本人が平和を愛する民族だというのは、このような縄文時代からのDNAによるものではないか。これからの調査・研究で新たな事実がどんどんと解明されるものと期待される(参考14)。
以上
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