はじめに
7月から8月にかけて中央アジアを旅して、強く感じたことの一つが「若いエネルギー」だった。街には若者や子どもが多く、自分たちの国はこれから成長していくという空気がある。20歳くらいで結婚して子どもを産み、40歳になればおばあさんになって、今度は娘の子育てを助ける。そんな家族の循環を見ていると、どこか昔の日本や、今も残る沖縄の子育て文化にも似ているように感じた。一方、日本を含む先進国では晩婚化が進んでいる。結婚しても子どもを持たない人もいるし、そもそも結婚しないという選択も珍しくなくなった。日本ではこれを「少子化問題」と呼び、出生数が減るたびにマスメディアは危機感を伝える。しかし、中央アジアの若い社会から日本を眺め直しているうちに、一つの疑問が湧いてきた。そもそも少子化は、本当に「問題」なのだろうか。
豊かになり、長生きし、女性も男性も多様な人生を選べるようになった結果として子どもの数が減っているのなら、それは社会発展の一つの帰結とも考えられる。問題なのは「子どもが減ること」そのものではなく、子どもを持ちたいと思っている人まで、教育、仕事、お金などを理由に諦めなければならない社会の仕組みなのではないか。中央アジアを旅したことをきっかけに、少子化について少し違った角度から考えてみたい。
少子化は「問題」なのか、それとも社会発展の必然なのか
少子化は一般に「解決すべき社会問題」とされている。しかし、本当にそうだろうか。歴史を振り返れば、乳幼児死亡率が高く、農業や家業に多くの労働力を必要とした時代には、多くの子どもを持つことに合理性があった。一方、社会が豊かになり、医療が発達し、教育期間が長くなり、女性の社会参加や生き方の選択肢が広がるにつれて、出生率が低下する傾向は多くの国で見られる。そう考えれば、少子化は社会の失敗というより、近代化や豊かさがもたらした一つの帰結とも考えられる。
問題なのは、子どもの数が減ること自体ではなく、減少の速度に社会制度が追いつかないことではないか。年金、医療、労働力、地方社会などを「人口が増えること」を前提に設計したままなら、急速な人口減少は大きな問題になる。したがって問うべきは、「どうすれば出生率を上げられるか」だけではない。人口が減っても持続できる社会をつくることと、子どもを望む人が経済や仕事を理由に諦めなくてよい環境をつくること。この二つを同時に考える必要がある。
富裕層が増えれば、子どもも増えるのか
「お金があれば安心して子どもを持てるのだから、富裕層が増えれば出生率も上がる」と考えたくなる。しかし、現実はそれほど単純ではない。所得が増えれば住宅費や教育費を負担する余裕は生まれるが、豊かな社会ほど一人の子どもに多くの時間とお金をかける傾向も強くなる。子どもの「数」より、教育や経験など一人当たりの「質」を重視するようになるからだ。さらに、高所得層ほど教育期間が長く、仕事や社会的地位を確立してから結婚・出産を考えるケースも多い。その結果、初産年齢が上昇し、希望していた人数まで子どもを持てないこともある。
興味深いのは、富が一部の人々に集中した場合である。富裕層だけが経済的余裕を持っていても、その層の出生率が人口維持水準を下回れば、世代を重ねるほど人数は減っていく。一方、多数を占める一般層が経済的不安から出産を控えれば、社会全体の出生数はさらに減少する。つまり重要なのは「富裕層を増やすこと」ではなく、普通の所得の人でも安心して子どもを持てる社会をつくることではないだろうか。
5世代、10世代で見る「富」と「人口」の意外な関係
出生率の違いを5世代、10世代という長い時間軸で考えると、「富」と「人口」の意外な関係が見えてくる。仮に人口を維持するために必要な出生率を2.1とし、富裕層の出生率が1.5だったとしよう。極めて単純化すれば、一世代ごとの規模は1.5÷2.1、つまり約71%になる。この状態が続けば、5世代後には現在の約18%、10世代後には約3%まで縮小する計算になる。もちろん、これは死亡率や移民、婚姻による階層移動などを考慮しない思考実験である。つまり、ある世代が巨額の富を独占していても、その集団の出生率が低ければ、人口としては長期的に縮小していく。しかも相続によって財産が分割されたり、婚姻によって別の階層へ移ったりするため、「富裕層」という集団そのものも固定されない。
逆に、所得の低い層の出生率が高ければ、数世代後には人口構成が大きく変わる可能性がある。富は一世代では強大な力を持つが、人口動態は数世代をかけて社会の姿を変える。お金は相続できても、人口は出生によってしか次世代へつながらない。この時間軸の違いは、格差社会を考えるうえで重要である。
若年妊娠――「産みたいのに産めない」という選択
若年妊娠というと、「望まない妊娠をどう防ぐか」という視点で語られることが多い。性教育や避妊へのアクセスはもちろん重要であり、中絶を含め、妊娠した本人の意思が最大限尊重されなければならない。しかし、もう一つ見落としてはいけないのが、「本当は産みたいのに、産むことができない」という選択である。高校生や大学生が妊娠した場合、出産によって退学や休学を余儀なくされたり、就職やキャリア形成が難しくなったりすることがある。さらに、出産費用、住居、保育、生活費などの問題が一度に押し寄せる。本人に出産の意思があっても、「今は無理だ」と諦めざるを得ないこともあるだろう。
必要なのは、若年出産を奨励することではない。出産を選んでも教育を続けられ、復学でき、育児支援を受けながら将来の職業を選べる仕組みである。「産むか、人生を諦めるか」という二者択一をなくすこと。それは少子化対策以前に、本人が自分の人生を選択できる社会をつくるという問題ではないだろうか。
教育・仕事・出産を二者択一にしない制度
出産を考えるとき、「学校を続けるか、子どもを産むか」「仕事を続けるか、育児に専念するか」という二者択一を迫られる社会では、出生率が下がるのも不思議ではない。特に若い世代ほど、出産によって失う教育やキャリアの機会が大きく、それが出産をためらう理由になる。必要なのは、出産を人生の「中断」にしない制度である。例えば、妊娠・出産による柔軟な休学と確実な復学、大学内保育、オンライン授業、奨学金返済の猶予や減免などが考えられる。就職後も、男女ともに育児休業を取りやすくし、短時間勤務や在宅勤務から無理なく通常勤務へ戻れる仕組みが必要だろう。
さらに重要なのは、支援を出産直後だけで終わらせないことである。保育、教育、住宅、医療まで切れ目なく支えれば、子どもを持つことによる経済的・時間的な不安は小さくなる。目指すべきなのは「子どもを産んでもらう制度」ではない。学ぶこと、働くこと、子どもを育てることを同時に選べる制度である。その結果として、希望する人が希望する時期に出産できる社会に近づくのではないだろうか。
育児を夫婦だけに背負わせない「3者分担モデル」

現代の日本では、育児は基本的に「父親と母親が責任を負うもの」と考えられている。しかし、共働きが一般化し、祖父母とも離れて暮らす家庭が増えた現在、この二者だけに十数年間の育児負担を集中させる仕組みには無理がある。そこで考えたいのが、育児を「家庭・地域や企業・国家」の3者で分担するモデルである。家庭は愛情や日常生活の中心を担う。保育園、学校、地域、企業などは、預かりや教育、働き方を通じて親を支える。そして国家は、保育・教育・医療・住宅などの基盤を整え、子育てによる経済的不利益をできるだけ小さくする。
これは決して、親の責任を社会へ転嫁するという意味ではない。むしろ、親だけでは担いきれなくなった役割を社会全体で補完する考え方である。かつて子どもは、祖父母や親戚、近所の人々を含む共同体の中で育てられていた。核家族化によって失われたその機能を、現代的な制度として再構築する。「子どもは家庭が産み、社会も一緒に育てる」という発想への転換が必要なのではないだろうか。
世界各国の初産年齢と出生率から見えてくるもの

世界各国を比較すると、女性の初産年齢が高い国ほど出生率が低くなる傾向が見えてくる。日本や韓国、イタリア、スペインなどでは、教育期間の長期化や晩婚化によって第1子を持つ年齢が30歳前後まで上昇し、その後に第2子、第3子を持てる期間が短くなっている。一方、初産年齢が比較的若い国では、結果として複数の子どもを持つ時間的余裕が生まれやすい。しかし、「早く産めば出生率が上がる」と単純化してはいけない。重要なのは、なぜ出産時期が遅くなるのかである。学業を終え、就職し、一定の収入を得て、住宅を確保してからでなければ安心して子どもを持てない社会では、初産年齢が上がるのは当然ともいえる。
逆に、若いうちに出産しても教育を継続でき、仕事へ復帰でき、保育や住宅の支援を受けられるなら、「出産は30歳を過ぎてから」という一本道ではなくなる。見るべきなのは初産年齢そのものではない。20代でも30代でも、出産によって人生の可能性が狭められない社会かどうか。各国の初産年齢と出生率の違いは、その社会が若い親をどれだけ支えられるかを映す鏡でもある。
なぜイスラエルは先進国でも出生率が高いのか

イスラエルは先進国の中では例外的に出生率が高く、女性1人当たり約3人という水準を長く維持してきた。宗教的な多産文化だけが理由と思われがちだが、それだけでは説明できない。世俗的な家庭でも複数の子どもを持つことが珍しくなく、社会全体に「子どもを持つこと」を肯定的に捉える文化が根付いている。背景には、家族や親族による育児支援に加え、保育や医療、生殖医療などへの公的支援がある。また、女性の教育水準や就業率が高く、「仕事をする女性」と「母親」が必ずしも対立する概念になっていない点も興味深い。
さらに、歴史や安全保障、宗教、民族共同体への意識など、イスラエル特有の事情も出生行動に影響していると考えられる。したがって、その制度をそのまま日本に移植すればよいわけではない。それでも重要な示唆がある。豊かになり、女性が社会進出すれば必然的に少子化するわけではないということだ。子どもを持ちながら自分の人生も続けられる環境と、子どもの存在を社会が歓迎する文化。この二つが両立すれば、先進社会でも高い出生率は可能なのである。
日本がイスラエルから学べること、学べないこと
イスラエルの高い出生率を見て、日本も同じ制度を導入すればよいと考えるのは早計である。2022年の合計特殊出生率は、OECD平均が1.5だったのに対し、イスラエルは2.9で加盟国最高だった。一方、日本を含む多くの先進国は人口維持に必要とされる2.1を大きく下回っている。イスラエルの高さを宗教だけで説明することもできない。2020~22年平均では、超正統派ユダヤ人が6.4と突出している一方、非超正統派ユダヤ人でも2.5、アラブ系イスラエル人も2.9だった。つまり、イスラエルの高い出生率は、超正統派の多産だけでは説明できない。
さらにイスラエルでは、25~54歳女性の労働参加率が2024年に80.9%に達している。3~5歳児の幼児教育・保育への参加率も97~100%と高い。多くの女性が働きながら子どもを持っているのである。日本が学ぶべきなのは宗教観や多産文化ではない。「女性の社会参加」と「複数の子どもを持つことは両立できる」という事実である。イスラエルの2.9という数字は、「先進国だから少子化は避けられない」という思い込みを問い直す材料になる。
「出生率を上げる」から「人生の選択肢を増やす」へ
少子化対策というと、「出生率を1.8に」「出生数を何万人に」といった数値目標が先行しがちである。しかし、出生率そのものを政策目標にすると、「女性にもっと産んでもらう」という発想に陥る危険がある。子どもを持つかどうか、いつ持つかは、本来一人ひとりが決めることである。政策が目指すべきなのは、出生を増やすことではなく、人生の選択肢を増やすことではないだろうか。20歳で出産しても大学を卒業できる。30歳で出産してもキャリアを継続できる。二人、三人と子どもを持っても経済的に困窮しない。そして、子どもを持たない人生も尊重される。どの道を選んでも大きな不利益を受けない社会をつくるのである。
そのためには、教育、雇用、保育、住宅、税制、社会保障を「標準的な人生」を前提にした制度から、多様な生き方を支える制度へ変える必要がある。出生率は目標ではなく、社会の状態を映す結果である。子どもを望む人が「お金がない」「仕事を失う」「学校を続けられない」という理由で諦めなくなった結果として出生率が上がる。それこそが、少子化対策のあるべき姿ではないだろうか。
ロボットと人間と経済成長率の話
これまで経済成長には、働く人の増加が重要だった。経済成長を大きく分解すれば、「働く人の数」と「一人当たりの生産性」の二つが重要な要素になる。だから少子化による労働人口の減少は、経済成長を阻害すると考えられてきた。しかし、AIとロボットの普及はこの前提を変える可能性がある。例えば働く人の数が毎年1%減少しても、一人当たりの生産性が年3%向上すれば、他の条件が同じだと仮定した単純なモデルでは、経済全体はなお年2%程度成長できる可能性がある。さらに重要なのは、ロボットには出生率がないことである。工場、物流、建設、農業、介護などで人間の仕事を補完できれば、「人口を増やさなければ経済を維持できない」という制約そのものが弱くなる。
そうなれば、少子化対策の意味も変わってくる。経済成長のために人口を増やすのではなく、人間が人間として豊かに生きるために、子どもを持ちたい人を支える。人口減少をAIとロボットによる生産性向上で補えるなら、目指すべきは「人口が増え続ける社会」ではなく、少ない人口でも一人ひとりが豊かに暮らせる社会なのかもしれない。
まとめ
少子化を考えていくと、これは単なる「子どもの数」の問題ではないことに気づく。豊かな国ほど出生率が低下する傾向はあるが、イスラエルのような例外もある。所得が増えれば子どもが増えるとも限らず、若くして出産したいと思っても、教育や仕事を失うことを恐れて諦める人もいる。問題の根底にあるのは、人生の選択肢ではないだろうか。20代で子どもを持っても学び続けられる。30代で出産しても仕事を続けられる。複数の子どもを育てても生活が破綻しない。一方で、子どもを持たない人生も尊重される。そんな社会なら、結果として出生率が変わる可能性がある。さらにAIやロボットが人間の労働を補完する時代には、「経済成長のために人口を増やさなければならない」という前提さえ変わるかもしれない。
だから、目標は出生率という数字ではない。産む自由と産まない自由、学ぶ自由、働く自由を同時に保障すること。少子化とは人口の問題である以上に、私たちが「どんな人生を選べる社会」を次の世代に残すのかという問題なのである。
以上