はじめに
東京大学大学院の科目履修生として、2022年度に更新して、新しい学生証もできたので、興味のある図書を3冊ほど取り寄せてみた。特に3冊目の豆腐の本が意外と言っては失礼だけど非常に興味深かった。特に、何が面白いと思ったかといえば、食材は民族とともに移動するという点だ。豆腐の料理法を劉安に教えてのが8人の方士であった。方士はどこから来たのだろうか。疑問は増すばかりだ。
一人になりたい男、話を聞いてほしい女
著者:ジョン・グレイ
訳者:児島修
出版:ダイヤモンド社
概要:
・男女の違いを深く理解することが、恋愛と人生を充実させるためのカギ(p2)。
・変えるべきはパートナーではなく自分自身(p5)。
・女性化する男性、男性化する女性(p32)
・ロールメイト(男が働き、女が子育て)の関係から(心の満足を高める)ソウルメイトの関係へ(p40)
・男女平等とは男と女は同じ生き物であると考えることではない(p78)
・男は戦うか逃げるか、女は思いやりと絆でストレスに対処する(p106)
・女性のテストステロンとエストロゲンは片方が上がるともう一方が下がる(p134)
・(男性は)女性に褒められ、感謝される度に、男性のテストステロンは増え、気分がよくなる(p203)
・男は女性の話に関心を持ち、感情を気遣っていると態度で示すことで彼女の気持ちを肯定できる(p207)
日本人と鏡
著者:菅谷文則
出版:同朋舎出版
概要:
・鏡には顔を映す実用的な作用と未来や過去を映し出す作用がある(p4)
・古代の世界では青銅で作られた鏡が多い(p6)
・日本に初めて近代ガラスが伝わったのは1551年のフランシコザビエルの贈り物(p8)
・伊勢神宮の内宮の神体であるとされる八咫の鏡は青銅教である(p12)
・幕末には日本製のガラス鏡も作られたが大変高価であり、江戸吉原を代表する大夫が持った(p27)
健康を食べる豆腐
・著者:菅谷文則、友次淳子
・出版:保育社
・概要:
・モスクワでは豆腐が食べられないので、主張でウズベキスタンに行くと豆腐を購入してモスクワに持って変える(p17)
・篠田統は、豆腐は北方遊牧民によって始められたとした(p22)
・前漢を建国した劉邦(247-195BC)の孫である劉安が任地の寿春に封じられ、多くの方士に恵まれた(p24)
・方士とは、戦国時代末期から神仙を説いた道教成立以前からの道を説く集団で大きな影響力を時代の権力者に及ぼした(p24)
・秦の始皇帝(295-210BC)に不老不死の仙薬が東海にあると進言し、3千人の童子、童女を伴って山東半島近くから徐福が船出した(p24)
・日本に到着した徐福は日本に科学知識を伝えた(p24)
・前漢を樹立した劉邦の孫、劉安は寿春の北山(八公山)という山の南に城を営み、方士数千人を招き、八公に不老不死の霊薬を作らせたが、ならずに、ついに大豆から豆腐を作り出した(p25)
・八公とは、蘇非、季尚、田由、雷被、伍被、普昌、毛被、左呉の八人。
(⇨ 道教神仙説については、こちらを参照してほしい)
・劉安が不老不死の仙薬の生成がうまくいかず困っていた時に、八人の仙人に尋ねると大豆をすりつぶして食物を作る方法を教えてくれた。言われた通りやってみると豆腐ができた(p26)
・中国古代を代表する農書や類書と称される中国古代からの百科事典には豆腐の記述がない(p26)
・ウズベキスタン共和国のタシケントの豆腐は、「うまい、京都の者より良い」(p51)
・食品、食材は民族とともに移動し、時には母国以上に根強く、食生活に残るのである(p53)
・蒙古人のうち外蒙古では豆腐は作らないし、食することもない。ところが、中国の内蒙古の蒙古人のうち定住している人は豆腐を作り、割合食べる(内蒙古大学のグリンバレ氏)という(p56)
・日本の豆腐では、正平(1346-1369)の僧玄慧の「庭訓往来」に豆腐羹の名が見える(p57)
参考1:打虎亭漢墓
前方後円墳の起源は打虎亭漢墓と報道されたが、中国の王仲殊がこの見方を打ち消し、2つの円墳が後の耕作によって連接されたとしたが、菅谷文則は著書「健康を食べる豆腐」の中で、「当初からの前方後円形に近い墳丘であったと考えてよい(p33)」と述べている。
(出典:打虎亭漢墓)
参考2:方士
方士とは、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて中国で活躍した専門家だ。方士は神仙家である。方士は儒教とも結びついて黄金器物の効果カマドの神の信仰、鬼神の駆使など、神仙道の教義を説いて積極的に布教していた。方士は、秦の始皇帝に不老不死の仙薬が東海(=日本)にあると進言し、日本に渡った。方士は、錬金術、占星術、占い、医師、魔術、僧侶、予兆学、人相学、技術などの神仙術を持っていたという。目的地は日本だった。しかし、出発地はどこなのか。
まとめ
ウズベキスタンのタシケントに豆腐があったという。地元のタジク人やカザフ人は買って帰らないけど、アジア人、ヨーロッパ人、ロシア人が買って変えるという。失われた十支族の人々が日本に向かって移動する中で、方士と呼ばれたという可能性はないのだろうか。多くの文化は朝鮮半島から日本に持ち込まれたとう説明がある。しかし、厳密にいえば、高度な文明を持つ人達(=方士)が中国や朝鮮半島を経由して日本に向かったと考える方が納得できる。また、その人たちも元々と日本人が同根であり、遥か古代に日本から中東に移動した人がかつての祖国である日本に向かったという仮説は成り立たないだろうか。文明は一方通行ではなく、双方向と考えた方が自然と思うがどうだろう。まだまだピースが不足しているけど、アンテナを張っていると様々な情報をキャッチできるし、そのうち全貌が見えてくるような気がする。
以上
最後まで読んで頂きありがとうございました。
拝
参考:十支族と八公
・十支族:ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族
・八公:蘇非、季尚、田由、雷被、伍被、普昌、毛被、左呉