はじめに
今日は、頭の中にあるモヤモヤを一度吐き出してみたいと思う。そのため、ここでは引用は無しにして、出典も問わず、思っていることをまずは整理してみたい。つまり、5つの疑問を考えていくと、弥生人の祖先は縄文人だったのではないかという結論に辿り着くという広大な仮説だ。日本列島を出て世界を旅した民族が故郷の地に戻って融合するというストーリーだ。これが絵物語なのか、それとも信憑性があるのかは今後少しずつ情報を集めて検証していきたい。
5つ疑問
モヤモヤしているのは一杯あるけど、特に気になるのは次の5点だ。
疑問1)鬼界カルデラの大噴火の時期に逃げた民族はどこに行ったのか?
疑問2)シュメール人はどこから来たのか?
疑問3)古代イスラエルを建国したのはどの民族か?
疑問4)失われた10支族は日の出る国をなぜ目指したのか?
疑問5)縄文人と弥生人はなぜ平和的に融合したのか?
疑問1)鬼界カルデラの大噴火の時期に逃げた民族はどこに行ったのか?
鬼界カルデラが大噴火したのは今から7,300年前とされている。紀元前5,300年ほどのことだ。また、7,000年前は最も温暖化が進み、いわゆる縄文海進で海面が今より3-5m高かった。わずか3-5mの上昇ではない。寒冷期が終わる約1.4万年前には海面の高さは今よりも100m以上低下していたので、そこに住んでいた人々(=縄文人とする)から見れば、大変な恐怖だろう。海面の上昇速度は毎年1-2cmとわずかであっても、徐々に徐々に海面が上がってくる。それまで内海だった日本海が太平洋の一部になる時のことを想像すると縄文人にとってはまさにこの世の終わりと感じたのではないだろうか。海面が低下していた時期には中国も日本も陸続きだったけど、海進が進んだ時期には特に中国の沿岸部は全て海面下と化したはずだ。北京も上海も広州も全て浅瀬の海となったのではないだろうか。大噴火があれば、大地震もあっただろう。津波もあっただろう。さらに海進による大洪水も頻発したはずだ。縄文人は生き残りをかけて東西南北に逃避したはずだ。その時に山に向かった人は縄文人として生き残った。しかし、海洋に出た人も生き残りに成功した民族もいたのではないだろうか。先日、「彩文土器は紀元前5,000年ごろから突如世界中で出現する。なぜだろう。」を投稿したけど、黄河流域、長江下流、インダス、メソポタミア、エジプトにおいて紀元前5,000年ごろから彩文土器が出土している。縄文人の土器文化が関係している可能性もあると思う。
疑問2)シュメール人はどこから来たのか?
高度な文明を持つ民族が突如メソポタミア地域に出現する。これをシュメール人と読んでいるが、このシュメール人がどこからきたのかは謎だ。インダス文明もそうだ。なぜ突然インダス文明が現れたのか。漢字が生まれたのは長江下流の民族という説もある。漢字はカタカナを組み合わせたような複合文字だ。ひらがなは漢字を略したものかもしれないが、漢字はどここから生まれたのか。カタカナは不思議な文字だ。古代イスラエルの文字と似ているとか、カタカムナに似ているとか、カタカナから漢字が出来たとかさまざまな説がある。もし、現在の日本列島に住んでいた民族が実は高度な文明を持ち、世界に散らばった可能性もあるのではないだろうか。
疑問3)古代イスラエルを建国したのはどの民族か?
シュメール文明は、紀元前5,500年ごろから紀元前3,500年ごろに開花したが、前3000年紀後半には、アッカド帝国に征服されてしまう。しかし、高度な文明をもつシュメール人は絶滅した訳ではない。高度な技術や知性、能力を有する集団はキングになるのではなく、キングメーカーになる道を探ったのではないか。つまり、ギリシャに移ってギリシャ文明を支えたり、北欧に進んで北欧文明を支えたのではないか。古代イスラエルの民族を支援したのもシュメール人、つまり縄文人の末裔だったのではないか。
疑問4)失われた10支族は日の出る国をなぜ目指したのか?
古代イスラエルで高度な文明を構築し、安定した社会を目指したが、北と南で分裂した。19代の王の元に253年間も存続した北王国は終焉を迎え、中東地域全域に離散した。北王国の10支族が全て東に向かったわけではない。北上した民族、南下した民族、西に向かった民族もいただろいし、実際その痕跡はある。同時に東にも向かっている。不思議なことは古代イスラエルの民族は極東に理想郷があると信じていたことだ。もし、古代イスラエルの先祖がシュメール人で、シュメール人の先祖が縄文人だとすれば、極東の地に平和で豊かな国が栄えていたと信じたい気持ちはわかる。顧客に向かうという気持ちもあったのではないだろうか。
疑問5)縄文人と弥生人はなぜ平和的に融合したのか?
失われた10氏族は現在のキリギスやブータン、トルコなどにも拠点を作りながら、少しずつ東に向かっていた。中国の秦の始皇帝に不老不死の仙薬が東海にあると進言したのは、戦国時代末期から神仙を説く集団で方士と呼ばれた。この方士は10支族の末裔だったのではないか。そして、極東に渡るため、時の権力者にも影響を与えながら便宜を図らせたのではないか。古代イスラエルの風習と日本の風習、古代イスラエルの言葉と日本の言葉には共通点が多いと指摘されている。それは、そもそも方士=支族=シュメール人=縄文人だとすれば、日本列島から外に出て戻ってきた同胞だ。祖先から聞かされていた故郷だ。そんな弥生人と縄文人はお互いに意思疎通もできたのではないだろう。中東〜中央アジア〜東アジアと旅するうちに個性豊かな民族となったのかもしれないけど、縄文人から受け継いだY遺伝子は大切に引き継がれたのではないだろうか。そもそも縄文人は稲作を知っていたし、小規模では実践したいたが、大規模な農作には反対したのではないか。なぜかといえば、大規模な耕作を進めるとどうしても貧富の差が生じて身分社会となる。それを中近東でもインダスでも東アジアでもみてきた。しかし、大規模農作が正当化される大事件が発生した。それが大飢饉だ。天候の不純等で農作物を確保できなければ民族が餓死する。このため、民は御海宝(おおみたから)と読んで大切にするように時の権力者に統治を委任したのではないだろうか。
まとめ
ポイントをまとめると広大な妄想と言えるかもしれないが、縄文人がシュメール人の祖先であり、シュメール人が古代イスラエル人の祖先であり、失われた10支族の末裔が東アジアを通じて日本列島に戻り、同根の民族である縄文人と共に日本の改革を図ったのが日本人の歴史だったのではないというストーリーだ。現時点ではまだ単なる想像であり、妄想のレベルだけど、このストーリの正しさが今後実証されるのだとするとワクワクするし、歴史を学ぶ醍醐味を感じることができるのではないだろうか。また、これは一つの仮説であり、これに固執するつもりもない。事実が一つずつ明らかになれば、正しい歴史認識を得ることができる。つまり、教科書に書かれている歴史は嘘ではないけど、真実とも限らない。歴史は勝者が書き換えてきたストーリだ。弱者の意見にも耳をかし、視野を広げると面白いことや興味深いことが見つかるような気がする。
以上
最後まで読んで頂きありがとうございます。
拝