はじめに
縄文文明とは何か。日本人の歴史を考える上で1万年以上も平和な社会が続いた縄文時代を避けて考えることはできない。縄文時代の前はどうだったのか。縄文時代はなぜ消滅したのか。そもそも縄文人とはどのような人たちだったのか。そんなことを知りたいと4冊の図書を借りて読んでみた。特に、印象的な部分を抽出したものになっている。参考になる部分があれば幸だ。
著書1:縄文のムラと社会
著者:松本直子
発行:岩波書店
要旨:
(まえがき)
・縄文文化は一つではない。英語で書くときはJomon Culturesと複数形で表す。
(ムラのはじまり)
・P1:人類の祖先がチンパンジーの祖先と分かれてから約600万年。人が定住を始めたのはたかだかこの1万年ほどのことに過ぎない。縄文社会でも狩猟採集を中心としながらも定住的な生活が発達したと考えられる。
・P3:本書では南九州に焦点を当てて縄文時代のムラの始まりをみてから、東日本に目を移して縄文ムラが独自の発達をとげる様子を追っていくこととする。創世記は1.5-1.2万年前、早期は1.2-0.7万年前、前期は7-5.5千年前、中期は5.5-4.5千年前、後期は4.5-3.25千年前、晩期は3,250-2800年前という時代区分。
・P4:九州において最も古い集落遺跡は、鹿児島市の掃除山遺跡と鹿児島県加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡である。
・P5:夏のムラと冬のムラを持ち、その間を季節的に移動するという生活は決して珍しいものではない。
・P6:縄文時代早期(1.2-0.7万年前)になると鹿児島の加栗山遺跡や国分寺市上野原遺跡など規模の大きなムラが出現する。上野原遺跡には、1万500年前に桜島が噴火した時の火山灰が堆積していたことから、このムラの形成は少なくとも1万500年前に遡る。壺型の土器や石鏃、磨石、石匙、石斧なども発掘されている。
・P15:縄文時代の創成期から早期にかけては、最終氷期の終わりごろにあたる。約1万年前以降は、徐々に温暖化が進み、日本列島の自然環境も変化した。特に、落葉紅葉樹林の拡大と縄文海進と呼ばれる海水面の上昇である。
中尾佐助や佐々木高明による研究によると、ヒマラヤ山脈の南麗から中国の雲海を経て、朝鮮半島、西日本に至る広い範囲に照葉樹林を基盤として育まれた独特の文化があるとし、それを「照葉樹林文化」と名付けた。
照葉樹林文化論を主に担ったのは中尾佐助、佐々木高明といった文化人類学者である。彼らは日本の生活文化の基盤をなす主な要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中するとして、類似した文化の広がる地域を照葉樹林文化圏と名づけた。照葉樹林は西日本から台湾、華南、ブータン、ヒマラヤに広がる植生である。この一帯には、人為攪乱によって照葉樹以外の植生となっているところが多いが、気候条件からみると照葉樹林が成立しうる。この地域に住む民族の文化要素には、森林や山岳と良く結びついたものが多い。長江文明は長江流域の沼沢地等の低平湿地に栄えた文明である。佐々木はさらに、西日本の照葉樹林文化に対応させるかたちで東日本にナラ林文化という概念を設定し、中国東北部や朝鮮半島に広がるモンゴリナラやブナ林の分布する地域にみられる文化要素との関連も示唆している。具体的には、根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる(出典:納豆菌プラスミドDNAによる研究)。
・p20:萩の台II遺跡では、後期にも集落が営間れており、その後期の捨て場からヒスイ製の大珠(たいしゅ)が三点も出土している(捨て場という表現が不適切だと思う)。ヒスイ硬玉は日本列島でも数カ所で確認されているが、見た目が美しく実際に玉などを作るのに使用されたのは新潟県の姫川流域のものに限られるようだ。
・P30:樺太アイヌや北アメリカの北西海岸インディアンのハイダなども冬は竪穴住居に住み、夏は涼しい堀立柱の建物に住む。御所野ムラの人々は年間を通じて土屋根の建物に住んでいたのだろうか。
・P37:御所野遺跡ではムラの中心部に積み上げることにした。それはゴミの堆積ではなく、ムラの歴史を象徴する場であり、繰り返し儀礼を行う集団の結束を象徴する場であった。貝塚は埋葬の場でもあった。
・P41:東方地方で御所野遺跡や三内丸山遺跡などが形成されていた頃、関東・中部地方では環状集落と呼ばれる特徴的な形態の集落が発達した。
・P48:中野谷松原遺跡では、人骨は残っていないが、耳飾りの出土などから死者は頭を西のほうに向けて葬られていたと考えられる。
・P90:北アメリカの北西海岸先住民のハイダ族は夏の間はいくつかの村に分かれて住んでいる氏族が冬には一つの村に集まって数週間の間、宴会や儀礼をする。春は業界類の採取が忙しく、秋はどんぐりなどの植物性食料の採取にかかりきりになる。
・P96:ヨーロッパの農耕社会の広がりについて分析したイアン・ホダーは家、家事(domestic)、栽培化(demestication)などを表す言葉がインド・ヨーロッパ語では互いによく似ていることを根拠にしている。
・P102:再葬は縄文時代にはいつくつかの時期・地域で見られる。環状列石が作られる東北地方の後期には成人の骨を土器に収めた再葬土器棺墓が数多く発見されている。
・P103:中妻貝塚の事例は死者が出ることに初葬、再葬を繰り返すという沖縄式の再葬行為は様相が異なっている。
・P105:風葬とは遺体を土中に埋葬せず、網籠に入れておいたり、架台にアンチしたりして骨化させる葬法で、チベットやバリ島、サハリンのウイルタ族などで見られる。日本列島でも鹿児島の徳之島などで近年前行われていた。
・P127:ギリシャ神話では月は女神、太陽は男神であるのに対して、日本神話では太陽が女神、月が男神となっている。
・P128:母系社会では、父系社会に比べて女性の地位は比較的高いが、男性の立場が著しく弱いということではない。
・P132:女性を象ったとされる土偶は、ヨーロッパ南東部の新石器時代の遺跡からも数多く出土している。
著書2:縄文文明の環境
著者:安田喜憲
発行:吉川弘文館
要旨:
・P24:文明というものを都市や王、あるいは文字や金属器の存在で定義する限り、縄文時代はいつまでも未開・野蛮の状態に甘んじなければならない。文明の概念そのものを変更しなければならない。梅棹忠夫氏は、「文明学の構築のために」において縄文文化を自然=人間循環系の文明と呼び、海洋的日本文明の原点に位置付けた。
・P42:3万年以前の日本列島にも人類が居住していたという二人(相沢忠夫氏と、芹沢長介氏)の先駆的な業績は正当に評価されることなく批判と嘲笑(ちょうしょう)のなかで学会の闇の彼方に葬り去られてしまった。
・P43:日本列島には後期旧石器時代の担い手である現代型新人(ホモサビエンスサピエンス)のみではなく、それ以前の旧人もいたことになる。北京原人につながる原人(ホモ・エレクトゥス)の時代から日本列島にも人類が居住を始めていたのである。
・P56:約3.3万年前ごろの日本列島は気候が寒冷化し、海面が低下し、陸橋が形成された。この陸橋を北方系の哺乳動物が南下し、それをおって石刃技法を携えた現代型新人が日本列島にやってきた。この人々こそ縄文人の直接の祖先になる人だ。
・P57:鹿児島湾が2.5万年前ごろに大噴火した。このAT火山灰の降灰の直後に朝鮮半島から剥片尖頭器をもった人々がやってきた。これに対して津軽海峡は冬の橋が一時的に形成される程度であった。南西諸島には40万年から2万年の間に台湾から沖縄を経て奄美大島、屋久島そして鹿児島に至る陸橋が何回も出現した。
・P66:森の文化を発展させる縄文人の祖先は、森の中で狩をした森の狩人であった。
・P79:1万2000年前にナイル川の大洪水があった。このような大洪水は日本にもあった。氷河期が終わり、後氷期の気候が安定的に確立するまでの1.2万年前から8000年前までは日本列島の環境も不安定で洪水が度々発生する大洪水期だった。
・P87:食料を求めた大移動を開始した人々はシベリアのバイカル湖周辺から東方に移動し、アラスカのベーリング海峡を通って新大陸アメリカに到達した。1万2000年前ごろローレンタイド氷床とロッキー山脈の間にできた氷の割れ目を南下した人々は8000年前までにこれらの大型哺乳動物の大半を狩尽くしてしまうのである。このバイカル湖周辺から東方へ大移動を開始した一派が日本列島にも到着した。その到着は、アメリカ大陸のローレンタイド氷床の南に到着する1.2万年よりも2000年近く早かった(つまり、1.4万年前か。)
・P93:日本列島では豊かな森の恵みに支えられて、縄文人は農耕社会へ突入する必要がなかった。さらに縄文人は農耕社会へ突入することを意識的に避けていた。富を貯蔵し、貧富の差を生み出し、その富を背景とした権力者が貧しき人々を搾取するような社会に突入することを避けていたように思える。
・P99:縄文時代は、出発の当初から栽培作物を有していた可能性が高い。鳥浜貝塚では縄文時代創世記の多縄文系土器(1.1万年前)の時代から瓢箪やアブラナ科の種子が検出されている。
・P103:中国大陸での文明の発展状況を考えると5000年前の縄文時代中期に稲作を携えた人々が日本列島に到来していた可能性は極めて高い。しかし、日本列島では縄文時代終末期にならないと稲作は定着・普及しなかった。それはなぜか?第一の理由としては、海の幸や山の幸に依存し、稲作を必要としないほどに豊かだった。第二の理由は稲作をもたらした人々が少数派で力がなかった。第三に女性中心の平等主義に立脚した縄文社会では男性指導型の稲作を実施に移すのが困難だった。
・P104:縄文時代晩期の気候寒冷化による環境の悪化の中で、縄文人は始めて食糧危機に直面し、大量死に直面した。この時に始めて稲作を開始せねばならない必要性が発生したのであろう。
・P109:土器は森の中の木や山菜、猪や鹿の肉、さらには川や湖に生息する魚、そして海の魚介類をごった煮する道具として発明された。
・P110:北欧でも森が広がるのは8000年前のことであり、土器が出現するのは7000年前に入ってからだ。土器は森の中で誕生し、森の拡大とともに普及した。日本列島でいち早く温帯の落葉広葉樹の森が拡大したことは密接に関連している。
・P164:日本では人が集団で人を殺し合うことが滅多になかった世界があった。しかも、1万年もの長きにわたって続いた時代があった。それが縄文時代である。
・P171:縄文時代は女性中心の時代であった。なぜ女性中心だったのか。森の川を遡上するサケなど森の資源を高度に利用する定住生活が開始した。定住は女性中心の社会を形成する第一歩となった。
・P175:生命を生み出すセックスもまたおおらかであった。かつ、女性主導のものであった。愛とは男性が作り出した言葉である。女性の生命を誕生する力を鼓舞し、それを崇拝した社会においては愛という言葉を強調する必要がなかった。そこで必要なのは生命の躍動であり、生命を誕生させたいという欲求こそが愛である。そして、その愛は生命を誕生させた後により深まる。
・P215:自然=人間搾取系の文明の侵略と破壊は、日本の山村が侵略されるまでに数限りなくあった。まず、アフリカが、続いて中・南米がそして、アジアの自然=人間循環系の諸文明が次々の侵略され崩壊していった。そうした中で、日本の農山村は自然=人間搾取系の文明の侵略から唯一残された最後の砦であった。
・P230:森とコメにこだわり続けてきた。これこそが日本人のアイデンティティだったのではあるまいか。森の文明とコメの文明。これこそが日本人のアイデンティティを代表するものではないのか。
著書3:縄文再発見
著者:藤田富士夫
発行:大巧社
要旨:
(プロローグ)
・P8:4800年前は縄文中期前半で、青森県三内丸山遺跡が栄えていた頃である。この遺跡は5500年前から4000年前の1500年間、連綿として集落が営まれ続けている。
・P9:縄文時代においてすでに太陽の動きが熟知されていたのではないかと指摘されている。小林達雄氏は、縄文人の世界で縄文人は太陽の運航から方位の概念を見つけて、ひいては天体の運航を観察していたのではないかとしている。
・P20:35cmの縄文尺。柱穴の間隔もピッタリ4.2mか2.8mと1.4m間隔となっている。
・P30:倍数物差しの単位は江戸時代にも見られる。幕府の直轄地となった飛騨国の管財運搬の様子を描いた運材図鑑には材木の長さを図る道具として長さ2間の間さお(けんざお)が図解されている。長さ2間は1丈4尺とあり、それは約4.2mのことである。
・P32:中国新石器時代の遺跡、陝西(せんせい)省の姜塞遺跡の住居跡の柱穴配置が17cmを単位とすることがわかった。古代中国には17cmを単位とする殷尺(いんしゃく)がある。岩田重雄氏は、中国の新石器時代の尺度の平均値は17.4cmとする。朝鮮半島では17.1cm、日本の縄文時代の尺度の平均は17.3cmとする。
・P87:縄文時代の日本海沿岸ではサメは重要な役割を担っておりサメ中心の文化形成さえあったのではないか。
・P91:縄文中期の氷見市の朝日貝塚や石川県宇野気町の上山田貝塚では、刺し突き具や釣り針を種としている。
・P105:出雲神話の因幡の白兎に出てくる和邇(わに)は現在の研究ではシュモクザメであった可能性が高い。
・P107:山形県の山間部に位置する長井市ではサメ焼きが食されている。かつては最上川の船便で日本海から日常的に運ばれてきた。
・P108:伊勢・志摩地方ではサメ肉の干物をサメのタレといい、日常食となっている。
・P111:サメからは良質の脂が取れる。特にアオザメやウバザメの肝油(かんゆ)には高級脂(スクアレン)が多い。サメ脂は皮革なめしの仕上げ用に用いられた。沖縄ではサバニ舟の防腐用に塗られたりもしている。サメ皮からは魚こうと呼ばれる接着剤の原料が取れる。膠(にかわ)の語源は煮皮だ。
・P112:秋田県から新潟県に至る日本海沿岸と北海道石狩低地帯の石油鉱床地域には天然アスファルトが産出する。サメ川は表面がざらざらしており、丈夫な素材であるので、古くから刀剣や鎧、鞍などの一部に用いられてきた。
・P114:資源の活用に長けた縄文人がサメを食料としてだけ捕獲して、他の部分を捨てたとは思われない。サメの骨を装飾具に加工したり、耳栓にしたり、サメやすりとして利用しただろう。
・P118:ヒスイロードとして、縄文中期から後期に脚光を浴びるルートは元を正せばサメロードであったと思う。
著書4:縄文遺跡に見る源流
日本人とさかなの出会い
著者:河井智康
発行:角川選書
要旨:
(まえがき)
・P7:豊かな自然の恵みを背景に、計画的な食料戦略で四季折々の美味しいものを食べ、高い技術文化と繊細な美意識を持っていた縄文人。彼らは2−3時間の仕事を楽しみ、昼寝や歌や踊りを楽しみながら、環境汚染も原発も、学校も消費税も戦争もない時代を1万年にわたって謳歌した(原始技術史研究者の関根秀樹氏)。
・P14:約1万4500年前に氷河期が終結し、約500年かけて寒帯の生態系が温帯のものに変化したことがわかった(安田喜憲)。
・P16:氷河期には海水量が減少s、と期に海面が100m以上も低下する。縄文時代直前の旧石器時代末には日本列島の北は大陸とつながり、人間も往来できた。北海道の噴火湾が湖だったことも証明されている。
・P17:間氷期には氷が溶けて海面が上昇する(海進)。縄文時代には、関東平野は群馬県館林までが海岸だった。縄文海進のピークは紀元前4000年ころ、つまり今から6000年前に当たる。
・P18:欧米の大陸ではこの時期に海進はなかったとされている。関根秀樹氏によると、「南方系の古モンゴロイドだった縄文人は、二重まぶたで目はぱっちりと大きく、彫の深い顔立ちだった。丸顔にエラの張った丈夫なアゴ。歯並びの良い小さめの歯。鼻は高く大きく、額は狭く、眉や髭は濃かった。指はすらりと長かった。撫で肩の筋肉質で手足は引き締まってすらりと長い。
・P29:貝塚は日本の専売特許ではない。欧米でも南フランスやスペインなどではよく見られる。フロリダ半島には大規模な貝塚がある。また、アジア・太平洋地域のあちこちにも見られ、オーストラリアでは一部に現在も使われている貝塚があるという。貝塚は世界で約400箇所で見つかっているが、国内では3000箇所に及ぶ。
・P34:干満さは長崎付近では5m近いが、北海道では0.5mと西高東低である。
・P51:100年後には気温が5-6度、海水温で4-5度の上昇が予測されている6000年前の縄文前期であ現在より気温が2-3度高かった。温度と海進が同比率で進むとは限らないが、21世紀海進の危険は大である。約1億年前の恐竜が闊歩した白亜紀には大規模な温暖化を迎え、海面は現在より300mも高かったと見られている。
まとめ
縄文をキーワードとして4冊の図書を一気に通読した。印象として残ったのは次の点だ。
・縄文人や縄文時代を考える上では、長期的な気候変動や海進・海退の構図を理解する必要がある。一言で言えば、縄文海進の時代い低地に住んでいた人は海の下に沈み、日本列島の山で生き残った人が縄文人だと言える。
・土器の形成と森の形成には強い関係がある。縄文海進に伴って海面が上昇し、南からの暖流が内海だった日本海に流れ込み、同時に北からも寒流が流れ込む、これがぶつかって大量の水蒸気を形成し、それが日本列島に大雨や大雪を降らせた。氷河期には日本海は内海だったため、降雨量も少なかった。降雨量が増大すると一気に豊かな森ができ。縄文人は森で生活できるようになった。そして、土器を活用する分化ができた。
・縄文時代の遺跡からは人が人を殺すための道具は発掘されない。日本列島は、地震大国であり、台風がくる、大雨が降る、津波が来る、火災が起きる、土砂崩れが起きると、各地でさまざまな災害が発生する。自然の猛威に対して人と人が協力して対峙することが求められ、それが縄文人=日本人のDNAとなった。これは今も息づいている。
・そんな素晴らしい縄文時代がなぜ収斂したのかといえば、縄文後期の寒冷期に食料不足に直掩し、食料を備蓄することが必要と人々が判断した。それまでは稲作を開始すると、貧富の差が生じて、支配階級と被支配階級に別れてしまう。女性主導で平等主義の縄文社会ではそれを嫌って避けていたが、食糧危機に対峙するにはやむを得ないと導入が決まった。
・しかし、それでも人と人が争いを起こさぬようにシラス統治を実践したのが神武天皇であり、それを明文化したのが十七条の御誓文だったのではないだろうか。
・日本社会は、これまでも幾多の危機を乗り越えてきた。それは高い文化と意識に支えられたものだ。これからの危機に立ち向かうには、民度を高め、意識を高めることこそが求められているものではないか。しかし、現実の世界では日本人は自己肯定感が低く、自信を持てず、自虐史観に陥っている。どうすればもっと良くなるのだろう。
以上
最後まで読んでいただきありがとうございます。
拝